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2012年04月18日

太陽ばなし

 詩 
    太陽ばなし  
                 芝憲子
わたしの子どもは約八人
すい きん ち か もく ど てん かい
あとは最近わからない 
あなた地球は生まれたときはわたしに似てた
火の玉 ドロドロ 衝突の星
けれど月星(つきぼし)ができ 水をたたえた
たくさんの生命が生まれては死ぬ特別な星 
青い偶然 青い幸運
それがすっかり変わったね
子どものうちでも始末のわるい
汚れたあぶない星になってしまった

ホモ・サピエンスと自分を名付けたごう慢な
愚かな二本足の生物が出てきた
科学を互いの殺し合い奪い合いに
縄張り争いが際限ない
金の亡者も うようよと
あげくのはては
二本足で消すことすらできない原子力の火を
星のあちこちにどんどんふやした
いまや宇宙までを汚そうとしている
宇宙までを軍事に使おうとしている
あなたはときどき
マグマの怒り 地の亀裂 山にあがる海
だが懲りない二本足はいまだに核を使いたがる
自滅の前にわからないのだろうか
見えないものの重要さを
放射能は見えず 心も見えない
わたしのことも夜になると見えない

それでもあなたはわたしの子ども
こわれないでほしい
わたしが息絶える十億万年後まで
生きものたちを育てる大事な星として
いっしょに回っていてほしい
心臓をずっとあたためつづけるから 

  (詩誌「1/2」第37号より)  
タグ :原発

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2012年02月06日

普天間

普天間に関する詩を、「琉球新報」の「琉球詩壇」という欄に、順番がまわってきて書いたのでのせます。


段ボールのトラベル

                  芝憲子
きらわれものの段ボール箱
来るな よるな と言われ
草木(くさき)も眠る丑(うし)三つ(みつ)時(どき)よりさらにあと
空き巣もあたふたの午前四時
宛先のない段ボール箱 
自分で辺野古に行ってしまった 
辺野古の環境影響評価だからね 

浜はまだ暗い 箱は海へ出た
十六箱の列 ぷーらぷーら
キャンプ・シュワブのサーチライト
なんだなんだ メイド・イン・チャイナか
ジョージやシェーンが拾ってあけた
どうやら自分たちのこと 
作ったのはジャパンの防衛省の天下り会社
オスプレイは部落では騒音少ない とウソ
ジュゴンに影響はない とウソ まずいぞ
この箱はバックしろバック と また海に

箱はボロボロになりながら 
行きつくところに行きついた アメリカ海岸 
段ボール紙にもふるさと 拾った九九%の人
オキナワの端(はし)を少し抱え したたる箱の焼夷
弾や暴行暴言の混じる話にうたれて言った
なんというオキナワ なんというジャパン
おーい「普天間」の穴だらけの危ない箱たち 
早くたたまれて 全部くにに戻ってこーい
オー・マイ・グッドネス 
オー・マイ・ボックス
シェーン・カムバック

一九四六年東京都出身、詩集「海岸線」(山
之口貘賞)ほか七冊、エッセイ集「沖縄の反核
イモ」(壺井繁治賞)絵本「バラのぜんゆう
さん」所属誌「詩人会議」「1/2」「縄」
「いのちの籠」ほか。

(「琉球新報」2012,2,4)
 


  

Posted by NORIKO at 11:48Comments(4)

2012年01月22日

花の車をおして

 こいけさま、コメントをありがとうございます。沖縄でも枯れ葉剤が使われたようで、おそろしいです。ベトナムのことは、以前は毎日かんがえていましたよね。
 発表した詩がもう1編あるので、のせておきます。

 
   花の車をおして  
                 芝憲子

地域のかたがつくられた春の車
やんばる協同クリニックの開院祝い
飾り車のついた箱が
オレンジや紫の花々 大きな緑の葉を
みごとにしょっていた

としをとり としの花が咲くと
押し車をおして歩くかたがふえる
つえにして
買ったものや 着がえもいれる
池原りえさんのは椅子にもなっている
きんさんぎんさんのぎんさんのむすめさんも
押し車をおして歩く
毎日近くの妹さんのうちに
九〇代三人、八九才ひとり
四人姉妹があつまり元気元気

沖縄には年中花が咲いている
ずっと車をおしつづける
すこし手をはなすと
島が見えない教科書や
海を見えなくする埋め立てが
いくさのヘリコプターにのってふってくる
手をはなさずに
花もつぼみも葉もトゲも根も虫も 
土ごといれて カタコトと

沖縄医療生協だより 二〇一二年一月号)  

Posted by NORIKO at 20:25Comments(1)

2012年01月05日

辺野古で



 辺野古で
               芝憲子

ひさしぶりに辺野古に行くと
テント村の人数がふえていた
犬のポチも元気だ
砂浜にはコンクリート塀
だが上の鉄条網には
リボンが前よりぎっしりと結ばれ
色とりどりに風に向かっていた

波打ちぎわ
水に手を浸し話しかけた
「よくがんばっているね」
海は「そうさー うん うん」と波を寄せた
「日本もアメリカも原発の元も
みんなここにあるんだね」
「そうさー うん うん」
くもり空だった
東北で大荒れの海も 新たな波頭(なみがしら)で 
「頼むよ」とうなずいていた

   (「沖縄民報」正月号より)  
タグ :辺野古

Posted by NORIKO at 12:13Comments(1)

2012年01月05日

沖縄の評判

1年前位にあったことを書いたら、投手のメジャー行きが騒がれ始めて、あれれ、でした。   



 沖縄の評判
                   芝憲子
あっ タイラさんの息子さんだ
交差点で〈ヤンバルの森をこわすな〉という 
ビラを配っていると
タイラさんの息子さんがとおった
タイラさんご夫婦は近所に住み
北部(ヤンバル)出身 数十年の知り合いだ
三十代の息子さんはダルビッシュによく似ており
バス停でたまに会ってあいさつする

「タイラさん おひさしぶりです」
ビラをさしだした
白いシャツの息子さんは
「ちがいます」といった
ちがうわけないのに
このごろお会いしなかったから忘れたのだろうか
歩み去るのを数歩追いかけ
自分の鼻を指差して
「タイラさん 芝です 芝です」といった
息子さんはかたい表情でまた「ちがいます」といった
そこでハッとした エッ逆?
「~~じゃあ ダルビッシュさん?」
青年は「ちがいます」とはいわず
ウン とうなずいた

タイラさんではなかった とただ見送った
もちろん握手など浮かばなかった 
沖縄でキャンプがある時期だった

北の投手か さらにもうひとりの似た人か
おもったかもしれない
「沖縄にはとてもヘンなおばさんがいる
この僕のことを 街のまんなかで
タイラさん タイラさん としつこくいう
僕とわかって
かえってがっかりした様子だった」      

   (詩誌「2分の1]36号より)  

Posted by NORIKO at 11:55Comments(1)

2012年01月02日

いちまいの布

 いちまいの布
                 芝憲子
陽に焼けて色があせ
襟がのびた何枚かのTシャツ
どこも破れてはいないのだが
思い切って鋏を入れる
半袖を切り落とし
肩を開いて
縫い目のないぞうきんをつくる
以前は女性の大事な日に用いた
こんな布でも不足していただろう三月

「母」にたとえられた海
めざめた原初の鼓動で
波のしわだらけの魔手を何千本も伸ばし 
あれほどにも高く す早く
月経の女性たちを次々にとらえた
体温を突然断たれて流木に
流れつくのがのぞみになった家族
海沿いをはなれても 
一日中 ゆくえに向き合っている
苦痛の布が全身をつよくしめつける 夜

女性たちは
清潔ないちまいの布をもとめ
人工でない陽にさらし
いちまいの布を折りかさねて
内なる海を 月を 続かせるだろう

もう会えないとはかぎらない
とんでいくはるかな海(うみ)色(いろ)の布の端をつかんで
遠くにいく日がかぶさってくる
こどものころつかんだ母のスカートも
黒っぽい 裏地の付いた布だった        
     
          (詩人会議 2012年 1月号)  

Posted by NORIKO at 12:52Comments(1)

2011年11月05日

ネコの詩

 動物は犬もネコも好きです。ウサギを飼っているEさんには見せられない詩のようなーーー。詩誌で「生きものたち」という特集がありました。

  
    ところかわればネコ

                  芝憲子
もっとも残酷な生きものが
贖罪のように飼うネコ
ニンゲン向けにいかにも幸せそうに見せるが
全身をクエッションマークにしてゴロンゴロン

トーキョーでのネコの名は「にゃあ」
「にゃあ」と呼ぶと「ニャー」と返事した
さかな屋さんが来る時間になると
ちょこんと塀の上で待っていた 

オキナワでのネコは娘がひろってきた
朝の新聞配達に
ひとコース ずっと 犬のようについてきた
食料はダシをとったあとの煮干しやかつお節だった
今そばにいるネコはネコ用カリカリ食料で育った
まだ子どものときに避妊手術をしてしまった
ネコ友もつくらずに寝てすごす
ベランダに来る鳥の鳴き声を真似する

ニュージーランドにいる娘
家には半分野生のネコがいて
庭の生きているウサギやネズミを
つかまえてバリバリと食べるという
ものすごく太い手足
旅行で数週間家をあけても自活している
ウサギは野菜やブドウの根を食べる害獣だという

ウサギも負けてはいない
オーストラリアのペットショップ
箱に入り わたしに毎日撫でられていた大ウサギ
ストレスがたまっていたのだろう
店員が言うには 閉店後 犬を追い回す と 
  
  (「詩人会議」2011,11月号より)  

Posted by NORIKO at 11:46Comments(1)

2011年09月05日

稲わらのメルトダウン

 ブログへの入り方を時々自分で忘れるので、忘れないうちに、発表した詩をもう1編書いておきます。
これは稲わらの放射線値が今のように騒がれる少し前に書いたものです。



     稲わらのメルトダウン
                 芝 憲子

福島からもどったGさん
アイロンのような持ち手の放射線測定器
スイッチを入れる
台風が吹き荒れたあとの那覇の室内
ピ・・・ピ・・・とおだやかに鳴る

だが 福島からの稲わら
コーヒーの空き瓶に
四,五センチに折れてぎっしり入った
変色した村
ガラスに測定器の丸い筒をむけたとたん
ピピピピピとはげしく鳴り
針がググッと動いた

ペンで 
見えないものを測ることもできたのに
毎週 核兵器廃絶の声をあげながら
原発のありようにまるで無知だった
生きている星のオロカ人間のひとりだった
ガラスの向こうの
変わり果てたルーツ
Gさんは声を低くして
遺体のことを話された
腕時計を先に見つけ
はめていた腕は
すでにコーラのような色だった

この時計がかすかに鳴る
溶解し続ける畑に足をとられながら
建屋のいらない浜に向かって
              (「詩人会議」8月号)           
  

Posted by NORIKO at 13:59Comments(1)

2011年09月04日

霧のなかで

    
      霧のなかで
               芝 憲子

津波を運び
月も白くなったあの日

家があるだけでありがたい
どんなに古くても
どんなに狭くても
水があがらない
家族がそろった住まいなら

沖縄では
自分の家のことも おうち と言い
絵のことを いえ と言うように聞こえる
南城市 つきしろの街
霧が多い
小池さんの家は
めずらしい円筒形
3階まで螺旋の階段
ガラス窓は平面
庭は 歩きやすいバラ園
屋上に「つきしろ9条の会」の
青色ののぼりがひるがえっている 

家をはなれ
山小屋でくらしたとき
木々もエビも
月で青白く光っていた
              (詩誌「1/2」35号より)   

Posted by NORIKO at 11:09Comments(2)

2011年04月20日

月桃の咲きかけ



  

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2011年04月12日

魚拓になったウツボ

魚拓になったウツボ
               
                芝憲子


国頭村(くにがみそん)安田(あだ)の海で釣られたウツボ
一メートル五〇センチくらいの
やや無気味な全身
魚拓にはふさわしくない姿
大きいから記念に と
ウロコのない身に墨を塗られた

歯のするどいウツボ
木製の額をつけて
何年かは 狭い家の壁にたてかけてあった
引っ越しでじゃまになり
どこかへ片付けて見えなくなった

安田のとなりの安波(あは)は 
そのころ
山の斜面にかやぶき屋根の家々が点々とたち
滝のある川
共同売店
夢かと思うようなシマだった
やがて かやぶき屋根は一軒もなくなった
安波ダムが造られている

わたし自身のシマもガラリとくずれ
かやぶき屋根はなくなった
ウツ・ボはいる ウツ・ボとして
体内に
やたらとためいきを発する
あーあ と声まで出す
面妖な顔だが中にいるので墨も足せない
ときどき クション ともいう
            ( 「1/2」第34号より)

  

Posted by NORIKO at 21:01Comments(1)

2011年04月12日

オキナワコーヒー

               

オキナワコーヒー


             芝憲子

見渡す限りの草原も
様々な樹木がおりなす深い森も
最初は一ミリ足らずの緑
風にさらわれそうな緑の点からはじまっただろう

点にもなるかならないかの
わたしたちののぞみが 
もやもやとかたちに
歴史のページが
島では
戦後のすべてをかけて
ざわざわ ばたばたと めくられ
マル秘の行でもどり またすすみ 
汗まみれ 波まみれ 開いたまま

反戦地主ぜんゆうさんのキャンプ・シールズの土地は
ほんのポチッとした点
普天間のそばで育った少年が抱いたおもいも
ポチリとした点 種 だっただろう

エチオピアが原産だという
ぜんゆうさんが庭に植え
実が赤く熟したコーヒーの木
さだ子さんが焙煎した豆
やや苦い
しみわたり くりかえす島の地図
豆あたまのわたしたち
イモの記憶で焦げる豆
溢れ出す 
オキナワコーヒー
    
      (「季論21」第11号)より                
  

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2010年12月23日

悟空の滝

中国に関連する詩の2篇目をのせます。

悟空の滝
                芝憲子
六百年よりさらに前から撚(よ)っていただろう
おたがいの海賊 遭難 冒険 欲望の船(ふな)糸(いと)
福建省から石材や建材を運んで造った
小さいが本格的な庭園 福州園
わたしがおおいに気にいり
かならずやることは
園の中心 岩に流れる幅二メートルほどの滝の 
裏側に ひょいと入ること
湿った隠れ場所
流水カーテン 
かなりの水音に包まれて
滝の内側から園を俯瞰(ふかん)
向かいの橋の上のひとと目が合ったりする
おどろいている
そばの竹林の青がだいぶ太くなった

孫悟空は
滝に飛び込んでは
裏側にある広やかな楽園と行き来していた
別世界との境が滝だった
日本風の 白い布を着て
滝つぼで激しく落下する水にうたれ
ひたすら浄化を求める修業とは異なる
意外性 二重性 広角性
 
諸々 亀や鯉の棲む池にするりと投げいれ
架空とのすだれをまとうと よじれるしかない
裏には奇怪な生き物 さらに滝がありそうな
悟空はきんと雲で思い切り飛んだのに
釈迦の手のひらから出られなかった
この小ぶりな庭園でよろこぶわたし自身が
小型なのだが
衝突船長を大歓迎した福州がたてる水しぶきに
身のほとんどが濡れた       (「詩人会議」2011,1月号)
  

Posted by NORIKO at 08:43Comments(1)

2010年12月13日

こちらこそ

豊里さま
 久茂地公民館の写真展は、友人と拝見しました。公民館は時々利用していて、偶然見られ、よかったです。またよろしくおねがいします。  

Posted by NORIKO at 08:30Comments(0)TrackBack(0)

2010年12月12日

お向かいさん

中国関係の詩を2編書いたので、のせます。

  お向かいのチョウさん
                芝憲子

子どものころ住んだ借家の
向かいの家は広い庭と高い塀
塀のデコボコの形状は 
絵によく描いたので今でもおぼえている
泰山木の葉と白い花が
塀の上からのぞいていた

木製の扉のすきまから
わたしはたまに 
誰もいない庭に入りこんだ
芝生に大きな庭石がいくつも置かれており
石に登って遊んだ
すぐ乗れる低い石もあれば
つるつるすべる登りにくい石もあった
庭に面してガラス窓があった気がするが
よく覚えていない 
誰かにそこで会ったり怒られたこともない
しばらく遊んで
また扉から帰った

チョウさんという中国人家族の家だった
貿易商と聞いたような気もする

十数年後
中国人が住んだ久米村(くにんだ)のあと
久米町に住んだ
中国人の子孫は那覇にすっかり混ざり合っていた
技能集団の誇りは ある

わが家のアパートの向かいは
航海安全の女神「天妃宮」あと
石門に石段
尖った石は ある
チョウさん 
会わないのになつかしいチョウさん


   (「1/2 」33号より)  

Posted by NORIKO at 18:44Comments(0)

2010年08月12日

千年木

ずっと前にとったもので、名前が気に入りました。葉鶏頭ににていますね。



  

Posted by NORIKO at 08:40Comments(0)写真

2010年08月11日

沖縄を返せ、の歌

   ひとつの歌と
               芝憲子

県庁入口に鳩山首相の黒い車があらわれた
「怒」と書いた黄色の紙を手に
「帰れ!」「帰れ!」「帰れ!」
到着までシュプレヒコールも沢山やったが
「沖縄を返せ」の歌を何回も歌った
「ひと坪たりとも渡すまい」も

車が名護に向かったあと
県庁前広場に移り 最後は
腕を組んで「沖縄を返せ」の大合唱
四〇年前の国会議事堂周辺と変わらずに
「返せ」と言わなければならない
この歌がこんなにもまた現場で歌われるとは

結局わたしの一生は
この歌一曲に収束されてしまうのか
フッ と出たのは
ためいきなのか
かすかな満足なのか
自分にもよくわからない 
音にも声にもならないひとひら
           
 
 詩誌「1/2」より  

Posted by NORIKO at 21:10Comments(1)

2010年08月11日

あー不便

自分のこのブログに、長いこと入れませんでした。管理会社が変わって、アドレスがどうとかで、あー、不便だった。  

Posted by NORIKO at 21:00Comments(0)エッセイ

2010年05月04日

二羽のアヒル

  
 沖縄はこのところまた忙しいです。四月二五日の県民大会はすごかったです。
鳩山首相が沖縄にきていますが、こんなにダメとはーーー。




 詩   二羽のアヒル
                  芝 憲子

アヒルは英語で duck
カモも  duck
花を育てるひとはアヒルとも話す
一九七七年五月に四日間 土地の使用期限が切れ
島袋ぜんゆうさんは米軍基地内に看板を立てた 
「ここは私の土地です。許可なく立入り使用を禁ず」
ニンニクを植え アヒルを放った
わたしは絵本の文に書いた
「あまりとべないアヒルが
じゆうをせおっていたのです」

絵本の英訳をアメリカ人女性のKさんにたのんだ
だが「アヒルには自由は背負えない」と言いはり 
その部分を訳すことをこばんだ
Kさん これは比喩です 
日本には「カモがネギしょってくる」
ということわざまであって と説明したが 
がんとしてわかってもらえなかった
さらにもう一か所「アメリカは世界中で、
さつじん、ごうとう、ぼうこうをしている」
というぜんゆうさんのことばを「違う」と
どうしても訳さなかった

しかたなく二カ所は自分で訳した
文学的表現をこばみ 
自国政府の明らか罪を認めないがんこな
アメリカ人に たまたま会ったのだろうか

ドナルドよ アンデルセンは覚えていますか
同じ泳げる鳥類 水紋を広げられる
日本のアヒルわたしたち
とべないが じゆうを背負ってノコノコと
境界の上を走る 
突っつく 
すわりこむ
    
                 (詩人会議3月号)  

Posted by NORIKO at 18:06Comments(0)

2010年01月07日

エッセイ

今年もよろしくおねがいします。 エッセイを載せます。 詩がすぐ見つからなくて。うわーん

      幻の大江健三郎氏高校講演
                           芝 憲子
 大江健三郎氏の作品は、高校、大学のころ、時々読んでいました。特に残っているのは、「セウ”ンティーン」です。私は若い女性だったので、男性の性を書いたその強烈さに圧倒されました。この作品は、一九六〇年社会党委員長浅沼稲次郎氏を一七才の右翼少年が刺殺した事件があり、セウ”ンティーンは恐ろしいということになっていましたが、その事件が元で書かれたものです。浅沼稲次郎氏刺殺事件は中学生の私もよく覚えており、それ以来学校に鉛筆けずりのナイフをもってくるのが禁止になりました。自分の年に近い「セウ”ンティーン」は関心ありました。
先日、その大江氏のことをインターネットで検索していました。なぜかというと、「詩人会議」に書いている「詩作の秘密」の二回目に私は天皇制と紫綬褒章のことなどをほんの少し書いたので、文化勲章を断った文化人として、大江健三郎、谷川俊太郎、熊谷守一(画家)、杉村春子などの名を思い出したり、見つけたりしていました。すると、大江氏が〇九年二月、新潟県三条市の県立三条高校の講演を辞退した、という項目が出ました。三条市が、大江氏の恩師、仏文学者の渡辺一夫氏のゆかりの地なので、講演を快諾したものの、その後校長が手紙で「政治に関しては話さないように」などと注文したため、辞退した、というものでした。手紙には「日の丸」「君が代」を式典で用いる、とも書かれてあったそうです。私は、大江氏の態度は当然だと思いました。
それで思い出したことがあります。高校時代、一九六三年に大江氏の講演を聞きそこなったことです。私は神奈川県立川崎高校の文芸部にいました。(ジマンめきますがこの高校の卒業生には、作家の島田雅彦―現在の校歌を作詞、溝口敦―文芸部の先輩、哲学者の中島義道―クラスメート、などがいて、大変個性的な人が多いといわれているそうです)文芸部ではその頃、文化祭に講演する文学者を呼んで、講演会を催していました。私の記憶では、その年、大江氏に講演を頼んだが、学校側が反対して実現せず、歌人の木俣修氏になりました。がっかりしました。しかし、その記憶はあっていたのだろうかと一年ほど前急に気になり、川崎高文芸部の顧問だった、詩人で作家の平田好輝氏に、確かめる手紙を出しました。すぐお返事を下さいました。大江氏の講演を聞きそこなった結果はあたっていましたが、経過は相当違っていました。お返事の一部を紹介させていただきます。『小生は生徒代表の人に頼まれて大江健三郎氏に電話したことは、よく覚えています。事務室の電話機を用いて、いきなり電話をしました。寺山修司に誘われて「若い日本の会」にはいっており、大江さんも石原さんもその会の主要なメンバーだったので、みんな同志であるというふうな意識があり、そのことを冒頭に述べて、講演の依頼をしました。「あのオ、ぼ、ぼく、講演は・・・」と途方に暮れたような声を出して、それから、とにかく講演はしたくないと一生懸命断るので、「ハイ、わかりました」と諦めました。(略)電話したのはその一本で、(学校の)クレーム云々のことはわかりません。』 それから、当時の学校新聞の復刻版を下さった方がおり、文芸部の項に『講演者を探すのに十人位たのんだが全部失敗、学校側からいろいろ意見をいわれた(石原慎太郎のとき)』とありました。つまりクレームは、石原氏についたので、理由は石原氏が自分の母校の教師をさんざん罵倒する人だからのようでした。
 私はその後「沖縄ノート」を読んで沖縄に来、三十数年後、憲法九条の会の講演で、やっと大江氏の講演を大勢の人と共に聞くことができました。      
   (詩誌 1/2 第30号)


  

Posted by NORIKO at 21:00Comments(1)エッセイ