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2022年11月23日

11月23日の記事

詩誌『1/2』(にぶんのいち)68号より
  
合唱組曲成功と“うたごえ ”
芝 憲子

 今年の八月二十一日、私が作詞し、池辺普一郎先生が作曲した混声合唱組曲「沖縄は叫ぶー平和・命・心のかなめー」の公演がありました。会場は、浦添市のアイムユニバースてだこ大ホールで、一〇〇〇人入ります。大きな会場ですが、音響がよく、一番後ろの席まで、声がよく響くところでした。八月二十一日は、沖縄のコロナ感染者がまだまだ多い時で、近くの知り合いの家族も次々に感染した時期でした。さらに、九月十一日投票の県知事選と県議補選の運動の真っ最中で、告示前最後の日曜日という重要な日でした。知り合いには選挙運動をやってもらいたいという気持ちが強いので、コンサートに強く誘うのも気が引けました。チケットを買って下さって、来られなかった方々が沢山いらっしゃいました。
今回、全国の支援もものすごく、県知事選、県議補選、両方ともオール沖縄の玉城デニーさんと、上原カイザさんが勝利し、本当にほっとしました。
おかげさまで公演は成功といってよく、客席は七割位埋まっているように見えました。実際には500人近くで、感想アンケートが一七〇人分も集まりました。これはめったにないことだそうで、しかもぎっしり書いてあるそうです。混声合唱組曲「沖縄は叫ぶ」は最後に、池辺先生指揮で合唱されました。神戸から二〇人と、県内六〇人、計八〇人で歌われました。三,四、五楽章のおわりに拍手がおこる(終わったと間違えたのではなく!)など、盛り上がりました。実行委員長の源啓祐先生も拍手したそうです。六楽章終わったときは、大拍手とともに、指笛も高く鳴って、沖縄ならでは、でした。沖縄のうたごえ運動に初期から携わった浦崎直定さんは、最後は歌いながら鳥肌が立った、とおっしゃっていました。池辺先生も満足そうでした。あとで、「本番に強い合唱団だ」とおっしゃいました。池辺先生作曲の公演は「海のトランペット」「無言館」など二年おきに行われていたのですが、今回ははじめて《沖縄発の曲》を、ということで、私に作詞依頼がきたのです。コロナで、公演予定が3回くらい延び、今回、やっと実現しました。そして、その間にロシアによるウクライナ侵略がはじまり、平和をねがう曲を歌うのが待たれていた、とも言えます。
 歌詞はタイトルが「おかあさん」「四〇〇の御霊(みたま)」「オキナワというだけで」「辺野古 あなたのぶんも」「空は起きたて」「沖縄から世界へ」の六楽章でできています。一~五楽章までは、私が以前に出した詩集から石垣潔さん(うたごえ沖縄協議会会長)が選んだ詩が元で、六楽章だけは新しく書いた詞です。池辺先生の作曲は、劇的で、なにか壮大な歴史曲(こんな言葉はないと思いますが)のようにして下さいました。格調が高い曲ともいわれます。それを八〇人が混声で合唱したので、迫力がありました。
合唱前の舞台での私との対談で、先生は、「僕はシがない作曲家です」と笑わせ、詩の大事さについて話され、プログラムの詩を見ながら聞いてもよいのでは、とおっしゃってくださったので、観客の方々は詩を文字でも読まれたと思います。感想でも詩についてたくさん書いてあるそうです。こんな風に大勢の方に詩を読まれ、曲と共に詩を聞いて下さったことははじめてで、本当にありがたいことでした。対談は約一五分でした。合唱の方々は、五分、一〇分の歌のために何か月も練習してくるのに、対談は打ち合わせもほとんどなく、ぶっつけ本番がよいと言われて、人前での話が苦手な私は何を話したらよいのか、申し訳なく、プレッシャーでした。対談とシャレの名手の池辺先生に合わせて、私もダジャレを考えたり(?)して、なんとか対応でき、あとで、「面白かった」とか「楽しかった」と言われて、よかった、と思いました。公演成功のために、私も、プログラムの広告とりから、チケット売り、団員用ニュースへの原稿書き、DVDの注文とりなど、実行委員並みにやったつもりです。作詞者って、地元にいるとこんなに大変(!)、と思いました。団員用ニュースは、9回位発行されました。実行委員会副会長の浦崎直定さんと、実行委員の一人の名嘉正勇さん(詩人会議の中さん)が、頑張って原稿を集め、印刷、発行して下さいました。浦崎さんと中さんは、テノールのメンバーで、山田健さん指導の練習にも毎週参加しながら、重責の石垣潔さんを中心に実行委員他、皆よくがんばり、コロナ禍でも催しが成功した珍しい例です。公演後「琉球新報」「沖縄タイムス」「名護共同センターニュース」に、記事がのりました。以前の二年おきの公演ではなかった反響だそうです。私は自分の詩が合唱で歌われて、恥ずかしいような、誇らしいような、ヘンな気持ちで、自分の詩でも役に立つのだ、と驚いているところです。
メロディーがいつまでも残る第三楽章の詩は次の通りです。
 
   オキナワというだけで
「オキナワというだけで/こみあげてくるもの/オキナワというだけで /トクトクと動きだすもの/ただの地名ではなく/ 血のかよった自分自身/どんなふうに亡くなったのか /どんなふうに生きのびたのか/ 七五年たって/ やっと話すことができる // いたるところに米軍のフェンス/だれもが頭のすみで考えている/ 亡くなった人々のことを/島を背負う子どもたちのことを/戦闘機の下のわたしたちのことを/フェンスが消える日のことを//わたしたち自身を/この手に抱き/とりもどそう」

 この公演は、うたごえ運動の一環といってよく、毎週発行の「うたごえ新聞」の三輪純永編集長もみえて、うたごえ新聞に大きくとりあげられました。沖縄のうたごえ運動は復帰前から、一九五六年ごろからのようです。九州からはじまり、全国で復帰運動とともに歌われた「沖縄を返せ」の歌が象徴的だと思いますが、平和のたたかいと共にあります。私も「沖縄を返せ」や「がんばろう」は、沖縄に来る前から、デモや集会のたびに歌っていましたが、そのほかには”うたごえ”にはそんなに関係なかった、と思っていたのですが
、今回、色々思い出したら、そうでもなく、若い頃から色々つながっていました。私がいた県立川崎高校は、お昼休みに講堂で、うたごえの合唱をやっていて、級友とよく行きました。「若者よ」とか「原爆を許すまじ」とか、たぶん生徒会の役員主導で歌いました。文芸部では、自分たちで歌集を作って、ロシア民謡とか、「国際学生連盟のうた」とか、歌いました。沖縄に来てからは、友人に誘われて波の上の「あかつきの大合唱」に行ったり、沖縄青年合唱団の鶴渕信子さん(旧姓盛島さん)に、全国の支援でできた美栄橋の市民集会所でお会いしたりしました。それから作曲家の大西進先生や、杉本信夫先生、大成京子さん(旧姓大工廻さん)にもお会いしました。後に三線をサークルに習いに行ったら、先生は赤嶺成輝さんで、沖縄のうたごえ運動の先駆者です。日本のうたごえ実行委から寄贈されたアコーディオンを弾いて、沖縄中を回った方です。皆様に感謝を伝える機会もなく、ここにお名前を入れさせていただくものです。

( 詩誌「1/2」68号 2022.11.1発行より   コピーがうまくいかず、エッセイの最初の方がはいっていないかもしれません。
  一応、これだけのせさせていただきます。)




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Posted by NORIKO at 12:53│Comments(0)エッセイ
 
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