2021年12月24日
12月24日の記事
書評 『治安維持法体制に抗して―近代沖縄反体制運動史 史資料』
田港朝昭 著
本書は、社会科教育学専門で、沖縄歴史研究者でもある著者が、1920年から1945年までの沖縄の貴重な資料のうち、沖縄戦で焼失を免れた民衆の資料を一部発見し、今までの資料を含めて人名別にきちんと整理して新しくあらわしたものです。全体が次のような項目で構成されています。
「沖縄県反体制運動史」「治安維持法沖縄関係犠牲者一覧」「事件・資料別名簿」「1930年代 教員運動関係者名簿」「文献別人名表」「治安維持法犠牲者を調べる」講演「思想問題に就いて父兄諸氏へ」(文部省督学官) 「沖縄人民の戦いの歴史」(対談 田港朝昭 新里恵二 司会・・犬丸義一)「用語解説」「年表―帝国憲法・フアシズム体制下の民衆」などです。
今まで断片的に聞いたり読んだりしていた、治安維持法に抵抗した人々のことが、系統的にわかるようにまとめられています。私などには初めて知ることも多く、『沖縄労農タイムス』という、繰り返し発禁処分に合った印刷物があったことなどもそのひとつです。また、対談の中で、「新里(恵二)・・戦後になると伊波(普猷)先生は短期間ですが共産党に入党して、共産党員として死にますね。あまり知られていないことなので、この機会に指摘しておきたいと思います」と語られたりしています。
人数としては770人余の人々の実名が表になっており、その多さにおどろきます。よく知られている名前も少しありますが、ほとんどが知られていない方々だと思います。「検挙、死去、懲戒免職、退学、無期停学」などが容赦なく並ぶこの方々のその後を考えさせられます。
1930年代教員運動関係者名簿は、「国吉真哲氏(ジャーナリスト)が保存している原本を宮城義弘氏(ジャーナリスト)がコピー・・」とあります。反体制運動の縁の下の力持ちの方々の系譜が現在につながっている、と思いました。現在の辺野古新基地反対運動にもつながる沖縄の人々の勇敢さを再認識させられます。
芝憲子(詩人)
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟沖縄県本部 発行
大城辰彦編集
(990円)
(『沖縄タイムス』 2021.9.25)
2021年12月21日
村田 正夫 没後10年、『潮流詩派』特集
私が選んだこの一篇
「お大事に!」 芝 憲子
『現代平和詩集』に収められた「お大事に!」を選ばせていただきます。
この詩には、村田さんの詩の特徴である、社会性、明快性、ユーモア、独自の視点などが凝縮されています。一年のなかで最も心に残る日が、誕生日とかでなく、八月一五日だというのは、いかにも村田さんらしい、原点を忘れない表出です。
「じりじりと暑い/ 戦争と平和が/神話と歴史が/すぱっ と別れた日」
と 体験を含めて明快に言い切ります。 そして「平和も年をとるもんだ」ということばにはっとさせられます。独特のすぐれた感性です。「年をとって ある日 ぽっくり逝く それが危ない」誰もが平和 平和と言っているうちに ボケて、再び戦争がくる、というのをいかめしいことばでなく、本質をついた表現であらわしています。「八月一五日には 血圧を測るように 平和を測れ お大事に!」と突き放して終わっていますが、この意識はとても大事なことです。村田さんにとって、平和が何よりも大切だということを表していると思います。そのことを、理屈っぽくなく、あっさり言い放って、詩にしているので、かえって心に残ります。平和をテーマの詩がたくさんあるなかで、特に「平和」という言葉を直接入れた詩はむずかしいと思うのですが、村田さんは、サッと適切なことばを選び出して、大げさでない詩にします。
自分のことになりますが、私はたぶん19才くらいから潮流詩派に入り、詩のグループとして初めてのところだったので、村田さんの影響を大きく受けたと思います。入ったのは、川崎の高校の文芸部の顧問だった、平田好輝先生が紹介してくださったからです。平田先生も、村田さんも、詩だけでなくエッセイや評論をよく書かれ、「潮流詩派」の誌面を割いており、会員になった私も自然に両方書くようになりました。潮流詩派は、そのころ風刺詩に力を入れていて、「NON砲」という風刺詩の詩誌も出していました。村田さんたちの話によく出てくる、風刺的な詩も書く詩人たちー小熊秀雄、金芝河、石川啄木、遠地輝武、山之口貘、マヤコフスキー、ジャック・プレベール、壷井繁治、長谷川龍生、谷川俊太郎、城侑、佐藤文夫、石垣りん、岩田宏、石川逸子・・・等々の詩人たちの詩を読んで、詩とは面白いものだと、思ったことでした。
村田さん本人も、冗談をよくおっしゃる、話好きな、面白い方でした。村田さんは誰よりも「詩人」であろうとしていたと思います。「いつも詩のことを考えているかどうかだ」とか「詩人は少し変わっていなくちゃ」とかおっしゃっていました。残した膨大な数の詩と評論は、まちがいなく立派な詩人であることを証明しています。言葉は正確ではありませんが、「詩人くらいは金にも名誉にもペコペコしない方がい」という意味のことをおっしゃっていました。その点村田さんはこれだけ大きな仕事をしながら、変に人にこびず、独自路線を貫き通しました。
私自身は「詩人会議」に移りましたが、ずっと後に、潮流詩派にもいたことがある人の詩に大量盗作を見つけてしまい、村田さんに最初に相談しました。アドバイスは明瞭で「書くように」ということでした。私に続き、書くことを引き継いでくださった(故)石川為丸さんに感謝するとともに、できるだけ「自分の言葉で書く」ことが大事だということを、村田さんが教えて下さったと思います。
亡くなっていく私たちの詩やエッセイは、大方は消えていきます。「忘れられないためには長生きすることだ」と、村田さんは冗談交じりにおっしゃっていました。せっかちな村田さんは、急いであの世へ行ってしまわれましたが、麻生直子さんと「潮流詩派」のおかげで、このように立派に残り、幸せな詩人だと思います。
(『潮流詩派』267号 2021.10)
「お大事に!」 芝 憲子
『現代平和詩集』に収められた「お大事に!」を選ばせていただきます。
この詩には、村田さんの詩の特徴である、社会性、明快性、ユーモア、独自の視点などが凝縮されています。一年のなかで最も心に残る日が、誕生日とかでなく、八月一五日だというのは、いかにも村田さんらしい、原点を忘れない表出です。
「じりじりと暑い/ 戦争と平和が/神話と歴史が/すぱっ と別れた日」
と 体験を含めて明快に言い切ります。 そして「平和も年をとるもんだ」ということばにはっとさせられます。独特のすぐれた感性です。「年をとって ある日 ぽっくり逝く それが危ない」誰もが平和 平和と言っているうちに ボケて、再び戦争がくる、というのをいかめしいことばでなく、本質をついた表現であらわしています。「八月一五日には 血圧を測るように 平和を測れ お大事に!」と突き放して終わっていますが、この意識はとても大事なことです。村田さんにとって、平和が何よりも大切だということを表していると思います。そのことを、理屈っぽくなく、あっさり言い放って、詩にしているので、かえって心に残ります。平和をテーマの詩がたくさんあるなかで、特に「平和」という言葉を直接入れた詩はむずかしいと思うのですが、村田さんは、サッと適切なことばを選び出して、大げさでない詩にします。
自分のことになりますが、私はたぶん19才くらいから潮流詩派に入り、詩のグループとして初めてのところだったので、村田さんの影響を大きく受けたと思います。入ったのは、川崎の高校の文芸部の顧問だった、平田好輝先生が紹介してくださったからです。平田先生も、村田さんも、詩だけでなくエッセイや評論をよく書かれ、「潮流詩派」の誌面を割いており、会員になった私も自然に両方書くようになりました。潮流詩派は、そのころ風刺詩に力を入れていて、「NON砲」という風刺詩の詩誌も出していました。村田さんたちの話によく出てくる、風刺的な詩も書く詩人たちー小熊秀雄、金芝河、石川啄木、遠地輝武、山之口貘、マヤコフスキー、ジャック・プレベール、壷井繁治、長谷川龍生、谷川俊太郎、城侑、佐藤文夫、石垣りん、岩田宏、石川逸子・・・等々の詩人たちの詩を読んで、詩とは面白いものだと、思ったことでした。
村田さん本人も、冗談をよくおっしゃる、話好きな、面白い方でした。村田さんは誰よりも「詩人」であろうとしていたと思います。「いつも詩のことを考えているかどうかだ」とか「詩人は少し変わっていなくちゃ」とかおっしゃっていました。残した膨大な数の詩と評論は、まちがいなく立派な詩人であることを証明しています。言葉は正確ではありませんが、「詩人くらいは金にも名誉にもペコペコしない方がい」という意味のことをおっしゃっていました。その点村田さんはこれだけ大きな仕事をしながら、変に人にこびず、独自路線を貫き通しました。
私自身は「詩人会議」に移りましたが、ずっと後に、潮流詩派にもいたことがある人の詩に大量盗作を見つけてしまい、村田さんに最初に相談しました。アドバイスは明瞭で「書くように」ということでした。私に続き、書くことを引き継いでくださった(故)石川為丸さんに感謝するとともに、できるだけ「自分の言葉で書く」ことが大事だということを、村田さんが教えて下さったと思います。
亡くなっていく私たちの詩やエッセイは、大方は消えていきます。「忘れられないためには長生きすることだ」と、村田さんは冗談交じりにおっしゃっていました。せっかちな村田さんは、急いであの世へ行ってしまわれましたが、麻生直子さんと「潮流詩派」のおかげで、このように立派に残り、幸せな詩人だと思います。
(『潮流詩派』267号 2021.10)
2021年12月20日
金曜日の昼休み
金曜日に会いましょう
芝憲子
小学校の横を通ると
小さい子とお母さんが手を振ってくれる
ホウライカガミがあり
オオゴマダラが舞っている
歩いたあとの冷たいお茶は最高
ルイボスティーを
立ったままや
道端の石垣にすわって ありがたく
そしてゆんたく 道端かいぎ
今日も続いてよかったね
37年那覇で続く核兵器廃絶デモ
今年の核兵器禁止条約発効に
ほんのちょっぴり役立ったにちがいない
はっきり声に出せる
あらためて言わないだいじなこと
「核兵器は緊急に廃絶せよ
国連の核兵器禁止条約を尊重せよ
原発再稼働を許すな
沖縄戦をくりかえすな
政府は県民投票の結果を尊重せよ
政府は土砂投入を中止せよ
安保条約は廃棄させよう
世界の宝 憲法九条を守ろう」
1984年2月から
県庁一周の昼休みデモ 休みなく
祝日でも台風でも 歩く
コロナでも
間隔とって 歩く
いつも十人前後で少ないけれど
一週でもこないと心配しあう親しいデモ
ひとりでもふえたら大歓迎
金曜日に
市役所裏のフクギの下でお会いしましょう
(『縄』第41号)
芝憲子
小学校の横を通ると
小さい子とお母さんが手を振ってくれる
ホウライカガミがあり
オオゴマダラが舞っている
歩いたあとの冷たいお茶は最高
ルイボスティーを
立ったままや
道端の石垣にすわって ありがたく
そしてゆんたく 道端かいぎ
今日も続いてよかったね
37年那覇で続く核兵器廃絶デモ
今年の核兵器禁止条約発効に
ほんのちょっぴり役立ったにちがいない
はっきり声に出せる
あらためて言わないだいじなこと
「核兵器は緊急に廃絶せよ
国連の核兵器禁止条約を尊重せよ
原発再稼働を許すな
沖縄戦をくりかえすな
政府は県民投票の結果を尊重せよ
政府は土砂投入を中止せよ
安保条約は廃棄させよう
世界の宝 憲法九条を守ろう」
1984年2月から
県庁一周の昼休みデモ 休みなく
祝日でも台風でも 歩く
コロナでも
間隔とって 歩く
いつも十人前後で少ないけれど
一週でもこないと心配しあう親しいデモ
ひとりでもふえたら大歓迎
金曜日に
市役所裏のフクギの下でお会いしましょう
(『縄』第41号)
2021年09月15日
シロタ ゴードン タワー と 「孫とピアノ曲・憲法}
シロタ ゴードン タワー と憲法の合唱曲
芝憲子
建物に関連して、在日アメリカ大使館発で、めずらしく良いニュースが回ってきました。今年七月二〇日、東京都港区にあるアメリカ大使館の施設に、「シロタ ゴードン タワー」という名前が新しく付いて、命名式が行われたのです。その高層の建物は、アメリカ大使館職員が住むタワーマンションで、メインゲートは、七月一六日「シロタ ゴードン ゲート」と名付けられました。シロタ ゴードンとは、戦後、日本国憲法作成に力を尽くしたベアテ・シロタ・ゴードンさんのことです。この度、米国務省主催で、各国の地域貢献のいくつかの候補の中から最終選考で決定したそうです。
命名式の写真。(『詩人会議』に) (故)ベアテさんの娘さんで、ニューヨークに住むニコール・A・ゴードンさんが送って下さいました。写真、左の男性は、ニコールさんのいとこ、シルヴァイン・デッティさんで、早稲田大教授。曾祖父が、レオ・シロタさん(ニコールさんの祖父)の兄弟だそうです。右の女性は、女性初の国務副長官ウエンディ・シャーマンさんで、式の祝辞を述べたそうです。シルヴァインさんの奥様と娘さんも参加されました。このようにベアテ・シロタ・ゴードンさんの名前が新しく残ることは、日本国内で、日本国憲法を改悪しようという動きが大きい今日、特に意義があるように思います。
なぜベアテさんの娘さんのニコールさんが、このニュースを私に教えてくださったかというと、私が、ベアテさんのフアミリーを中心にした、合唱曲「孫とピアノ曲・憲法」の作詞をし、そのことをニコールさんにお知らせしていたからです。作曲は、大西進先生です。詞は、日本語のまま、昨年秋にメールでお知らせしていました。ニコールさんは、グーグルの翻訳機能で、大体の意味がわかると書いてきました。祖父のレオ・シロタさんの言葉に託して、ピアノを弾くことと、憲法を孫の世代、未来まで引き継ぐことを重ねた詞を気に入られたようでした。そして曲が聴きたいと書いておられました。
孫とピアノ曲・憲法
辺野古のゲート前にはいつも
カメジローの孫がいる ヒゲつけて
平塚らいてうの女学校時代 担任は矢作(やはぎ)哲(てつ)
大銀杏(おおいちょう)の髪型できびしかった
娘の矢作悦の本籍は なぜか 那覇区上ノ蔵町
その孫は 詩人会議の やはぎかのう
あの時代同じ時代ピアニストのレオ・シロタがいた
ロシア系ユダヤ人
演奏先の中国で山田耕作に会い
一九二九年東京音楽学校に招かれた
ピアノの詩人ショパンの曲に卓越
レオ・シロタの娘は ベアテ・シロタ・ゴードン
・・・・・・
亡くなる一〇日前も 日本国憲法を
他国のモデルに と 話した
孫はニコール・ゴードン
ニューヨークの女性弁護士
・・・・・・
ピアノの調べが流れていく
なめらかにダイナミックに
地球のどの国へも どの人にも
ポーランドへもどれなかったショパンの夢
戦争へは二度ともどさないベアテの情熱
わたしたちのアジアへの悔恨
亡くなった二千万人の思い
わたしたちの心音(しんおん)
・・・ ・
(原詩は「詩人会議」に。やはぎさんのルーツの話から生まれました)
このように歌にするには変わった詞で、長さも長く普通の歌の三倍位だそうですが、大西先生がものすごく早く作曲して下さいました。先生の指揮で、「コールかるがも」が歌って下さることになりました。「コールかるがも」は、沖縄での平和コンサートに皆さんでみえて、私もいる新婦人のコーラス、シーサー班といっしょに歌って下さったコーラスブループです。コロナウイルスの蔓延で合唱練習がままならず、今年の春から休み休み、とお聞きしていたところでした。大西先生に、ニコールさんから「シロタ ゴードン タワー」のお知らせがあったことをお話しすると、先生は、ベアテさんの業績に自分たちもつながるようだ、と喜ばれました。そして合唱を録音する予定が八月だったのを、早めて命名式の七月二〇日に間に合うようにする、とおっしゃいました。その通り、七月はじめに録音しました。「コールかるがも」の皆さんは、リハーサル不足ではないかと少し不安だったようですが、大西先生は、「人生にリハーサルはありません」(!)と名言をおっしゃって指揮なさったそうです。合唱団の方がすぐCD 化して送って下さいました。私の変わった詞が、壮大な、心のこもった、すばらしい合唱曲になっていました。ショパンの「ノクターン」をバックにした集団朗読のところもあり、ありきたりでない、力強い合唱です。
私は、CⅮや楽譜をニコールさんに郵送する傍ら、早く着くよう、メールでもお送りしました。ニコールさんは命名式にはいらっしゃれず、親戚の方がみえたのですが、二〇日前にお聴きになれ、とても喜んでいただけました。感想が来ました。「この曲を作曲し、参加されたすべての方々のご努力に深く感謝します。音楽は強く、深く感動させられます。言葉は大変意味深く、平和と未来への希望の主題に、ピアノを演奏するところが大変興味深い。ベアテは心を動かされたでしょう。“イッショウケンメイ”といつも言っていました・・・」
こうした交流により、世界に誇る日本国憲法を、これ以上形骸化させたくない,憲法改悪を止めたいと、改めて思ったことでした。沖縄と憲法については、県民は長く米軍占領下にあったので、独特の歴史があります。「復帰前の沖縄では、米軍基地から派生する事件。事故によって多くの命が犠牲となりました。米軍基地の撤去を求めた沖縄の復帰運動は、実質的に平和憲法の下への復帰を求めるものでした。このことは、復帰の日の地元新聞が、日本国憲法全文を紙面に大きく掲載したことや、那覇市議会の「祖国復帰宣言」にも表れています。」(『わたしの憲法手帳』沖縄県憲法普及協議会、二〇一五年発行) 最初の『憲法手帳』の、那覇市長平良良松氏の序文は感動的です。「憲法のけいがい化の実態を、直接に見せられたのが、沖縄県民である。平和憲法体制への復帰を要求した私たちに、本土政府が復帰対策として、真先に提示したのが、反憲法体制の象徴ともいうべき、自衛隊配備であった。私たちは、これに対し、反戦平和、県民福祉、市民生活の細部と結びついた憲法精神を対置して、憲法の命をよみがえらせなければならない。つまり、憲法の初原の命を、本土へさしむけるのである。五月一五日は、その第一歩をしるす日である。私は、那覇市民とともに、憲法を守り、憲法を実践するための、新たな「復帰運動」をこの憲法手帳をかざして開始する.一九七二年五月一五日 」(沖縄県憲法普及協議会編集、三省堂発行)
この、復帰とともにできた沖縄県憲法普及協議会は、沖縄での憲法普及運動の中心として、持続的に活動し続けています。毎年五月三日の憲法記念日には、沖縄人権協会と日本科学者会議沖縄支部と共に、大きな憲法講演会を開いてきました。今年は、琉球新報ホールで、オンラインと、予約入場者の参加で、群星沖縄臨床研修センター長徳田安春氏による「基地なき平和な沖縄への道標―医師が沈黙を破るとき」でした。沖縄県憲法普及協議会は、県内,各地の「九条の会」と連絡を取り合い、「九条の会」は、日常的にそれぞれのやりかたで運動を続けていて、県民の運動の基礎となっています。
今、「辺野古」と共に「土地規制法」や「南部の土砂問題」が大きな問題となり、どれも憲法に関わります。そこでまた自分の詩のことで恐縮ですが、南部の土砂問題で、「骨のカチャーシー」が思い出されるようで、最近、舞台―「ゴーシュ、塀の向こう」(ACO沖縄制作)で歌になるようですーや、版画―ベルギーに住む比嘉かなこさんが製作中―に取り上げられ、なにか不思議な気がしているところです。
(『詩人会議』2021.10月号)
芝憲子
建物に関連して、在日アメリカ大使館発で、めずらしく良いニュースが回ってきました。今年七月二〇日、東京都港区にあるアメリカ大使館の施設に、「シロタ ゴードン タワー」という名前が新しく付いて、命名式が行われたのです。その高層の建物は、アメリカ大使館職員が住むタワーマンションで、メインゲートは、七月一六日「シロタ ゴードン ゲート」と名付けられました。シロタ ゴードンとは、戦後、日本国憲法作成に力を尽くしたベアテ・シロタ・ゴードンさんのことです。この度、米国務省主催で、各国の地域貢献のいくつかの候補の中から最終選考で決定したそうです。
命名式の写真。(『詩人会議』に) (故)ベアテさんの娘さんで、ニューヨークに住むニコール・A・ゴードンさんが送って下さいました。写真、左の男性は、ニコールさんのいとこ、シルヴァイン・デッティさんで、早稲田大教授。曾祖父が、レオ・シロタさん(ニコールさんの祖父)の兄弟だそうです。右の女性は、女性初の国務副長官ウエンディ・シャーマンさんで、式の祝辞を述べたそうです。シルヴァインさんの奥様と娘さんも参加されました。このようにベアテ・シロタ・ゴードンさんの名前が新しく残ることは、日本国内で、日本国憲法を改悪しようという動きが大きい今日、特に意義があるように思います。
なぜベアテさんの娘さんのニコールさんが、このニュースを私に教えてくださったかというと、私が、ベアテさんのフアミリーを中心にした、合唱曲「孫とピアノ曲・憲法」の作詞をし、そのことをニコールさんにお知らせしていたからです。作曲は、大西進先生です。詞は、日本語のまま、昨年秋にメールでお知らせしていました。ニコールさんは、グーグルの翻訳機能で、大体の意味がわかると書いてきました。祖父のレオ・シロタさんの言葉に託して、ピアノを弾くことと、憲法を孫の世代、未来まで引き継ぐことを重ねた詞を気に入られたようでした。そして曲が聴きたいと書いておられました。
孫とピアノ曲・憲法
辺野古のゲート前にはいつも
カメジローの孫がいる ヒゲつけて
平塚らいてうの女学校時代 担任は矢作(やはぎ)哲(てつ)
大銀杏(おおいちょう)の髪型できびしかった
娘の矢作悦の本籍は なぜか 那覇区上ノ蔵町
その孫は 詩人会議の やはぎかのう
あの時代同じ時代ピアニストのレオ・シロタがいた
ロシア系ユダヤ人
演奏先の中国で山田耕作に会い
一九二九年東京音楽学校に招かれた
ピアノの詩人ショパンの曲に卓越
レオ・シロタの娘は ベアテ・シロタ・ゴードン
・・・・・・
亡くなる一〇日前も 日本国憲法を
他国のモデルに と 話した
孫はニコール・ゴードン
ニューヨークの女性弁護士
・・・・・・
ピアノの調べが流れていく
なめらかにダイナミックに
地球のどの国へも どの人にも
ポーランドへもどれなかったショパンの夢
戦争へは二度ともどさないベアテの情熱
わたしたちのアジアへの悔恨
亡くなった二千万人の思い
わたしたちの心音(しんおん)
・・・ ・
(原詩は「詩人会議」に。やはぎさんのルーツの話から生まれました)
このように歌にするには変わった詞で、長さも長く普通の歌の三倍位だそうですが、大西先生がものすごく早く作曲して下さいました。先生の指揮で、「コールかるがも」が歌って下さることになりました。「コールかるがも」は、沖縄での平和コンサートに皆さんでみえて、私もいる新婦人のコーラス、シーサー班といっしょに歌って下さったコーラスブループです。コロナウイルスの蔓延で合唱練習がままならず、今年の春から休み休み、とお聞きしていたところでした。大西先生に、ニコールさんから「シロタ ゴードン タワー」のお知らせがあったことをお話しすると、先生は、ベアテさんの業績に自分たちもつながるようだ、と喜ばれました。そして合唱を録音する予定が八月だったのを、早めて命名式の七月二〇日に間に合うようにする、とおっしゃいました。その通り、七月はじめに録音しました。「コールかるがも」の皆さんは、リハーサル不足ではないかと少し不安だったようですが、大西先生は、「人生にリハーサルはありません」(!)と名言をおっしゃって指揮なさったそうです。合唱団の方がすぐCD 化して送って下さいました。私の変わった詞が、壮大な、心のこもった、すばらしい合唱曲になっていました。ショパンの「ノクターン」をバックにした集団朗読のところもあり、ありきたりでない、力強い合唱です。
私は、CⅮや楽譜をニコールさんに郵送する傍ら、早く着くよう、メールでもお送りしました。ニコールさんは命名式にはいらっしゃれず、親戚の方がみえたのですが、二〇日前にお聴きになれ、とても喜んでいただけました。感想が来ました。「この曲を作曲し、参加されたすべての方々のご努力に深く感謝します。音楽は強く、深く感動させられます。言葉は大変意味深く、平和と未来への希望の主題に、ピアノを演奏するところが大変興味深い。ベアテは心を動かされたでしょう。“イッショウケンメイ”といつも言っていました・・・」
こうした交流により、世界に誇る日本国憲法を、これ以上形骸化させたくない,憲法改悪を止めたいと、改めて思ったことでした。沖縄と憲法については、県民は長く米軍占領下にあったので、独特の歴史があります。「復帰前の沖縄では、米軍基地から派生する事件。事故によって多くの命が犠牲となりました。米軍基地の撤去を求めた沖縄の復帰運動は、実質的に平和憲法の下への復帰を求めるものでした。このことは、復帰の日の地元新聞が、日本国憲法全文を紙面に大きく掲載したことや、那覇市議会の「祖国復帰宣言」にも表れています。」(『わたしの憲法手帳』沖縄県憲法普及協議会、二〇一五年発行) 最初の『憲法手帳』の、那覇市長平良良松氏の序文は感動的です。「憲法のけいがい化の実態を、直接に見せられたのが、沖縄県民である。平和憲法体制への復帰を要求した私たちに、本土政府が復帰対策として、真先に提示したのが、反憲法体制の象徴ともいうべき、自衛隊配備であった。私たちは、これに対し、反戦平和、県民福祉、市民生活の細部と結びついた憲法精神を対置して、憲法の命をよみがえらせなければならない。つまり、憲法の初原の命を、本土へさしむけるのである。五月一五日は、その第一歩をしるす日である。私は、那覇市民とともに、憲法を守り、憲法を実践するための、新たな「復帰運動」をこの憲法手帳をかざして開始する.一九七二年五月一五日 」(沖縄県憲法普及協議会編集、三省堂発行)
この、復帰とともにできた沖縄県憲法普及協議会は、沖縄での憲法普及運動の中心として、持続的に活動し続けています。毎年五月三日の憲法記念日には、沖縄人権協会と日本科学者会議沖縄支部と共に、大きな憲法講演会を開いてきました。今年は、琉球新報ホールで、オンラインと、予約入場者の参加で、群星沖縄臨床研修センター長徳田安春氏による「基地なき平和な沖縄への道標―医師が沈黙を破るとき」でした。沖縄県憲法普及協議会は、県内,各地の「九条の会」と連絡を取り合い、「九条の会」は、日常的にそれぞれのやりかたで運動を続けていて、県民の運動の基礎となっています。
今、「辺野古」と共に「土地規制法」や「南部の土砂問題」が大きな問題となり、どれも憲法に関わります。そこでまた自分の詩のことで恐縮ですが、南部の土砂問題で、「骨のカチャーシー」が思い出されるようで、最近、舞台―「ゴーシュ、塀の向こう」(ACO沖縄制作)で歌になるようですーや、版画―ベルギーに住む比嘉かなこさんが製作中―に取り上げられ、なにか不思議な気がしているところです。
(『詩人会議』2021.10月号)
2021年09月15日
憲法の合唱曲とシロタ ゴードン タワー
憲法の精神を孫子の代へ
合唱曲と シロタ ゴードン タワー
「孫とピアノ曲・憲法」
新型コロナウイルスのためコンサートや合唱の練習が思うようにならない毎日ですが、作曲家の先生方の創作意欲は衰えることがないようです。昨年、私は「孫とピアノ曲・憲法」という、ひとつの歌にするには長い、元は『詩人会議』に発表した、かなり変わった詞を大西進先生におそるおそるお送りしました。ところがほんの数日で、「メロディーができました」とファクスが来て驚きました。「孫とピアノ曲・憲法」には、瀬長カメジローや平塚らいてう、レオ・シロタらが出てきます。レオ・シロタは、日本国憲法の作成に力を尽くしたベアテ・シロタ・ゴードンのお父さんで、東京音楽学校の先生でした。ベアテは日本で五歳から十五歳まで生活し、日本の女性の地位が低いのを見聞きしていました。私は詞に「特に二四条 両性の平等はベアテなしには入らなった 亡くなる十日前も 日本国憲法を他国のモデルに と話した 孫はニコール・ゴードン ニューヨークの女性弁護士・・・・ピアノの調べが流れていく なめらかに ダイナミックに…・・戦争へは二度ともどさないベアテの情熱・・・」と書き、憲法の精神が私たちの孫子の代まで続くように願いを込めました。
私はこの合唱曲のことを、できたらニコールさんへ直接お知らせしたいと、「新婦人新聞」の編集部にメルアドをお聞きし、メールしました。翌日すぐメールが来て、大変喜んで下さり、曲を聞きたい、というお返事でした。沖縄の平和コンサートに来られた「コールかるがも」が、大西先生の指揮で今年から練習を始めましたが、休み休みで、大変そうでした。そこへ、七月三日、急にニコールさんからメールで、《日本のアメリカ大使館の施設をベアテの功績にちなんで「シロタ ゴードン タワー」と名付けます。最終選考で選ばれました。命名式を、七月二〇日に行います。メインゲートは「シロタ ゴードン ゲート」と名付けます。》という、大使館からの知らせを教えて下さいました。私などあまり近づきたくない(?)アメリカ大使館もイキなことをするものです。ニコールさんは式にはいらっしゃれないようでしたが、大西先生へお知らせすると、合唱の録音が七月二〇日までに間に合えば一番いい、ということになり、予定を早めて下さいました。普通の歌の三倍は長いこの曲を「コールかるがも」の皆さんが歌い、録音し、すぐにCD化して送って下さいました。力強い、壮大な合唱曲になっていて感激しました。私はCDを郵送する傍ら、、パソコンでメールにのせてニコールさんにお送りしました。感想が届きました。「この曲を作曲し、参加されたすべての方々のご努力に深く感謝します。音楽は強く、深く感動させられます。言葉は大変意味深く、平和と未来への希望の主題に、ピアノを演奏するところが大変興味深い。ベアテは心を動かされたでしょう。“イッショウケンメイ”といつも言っていました・・・」 「シロタ ゴードン タワー」の命名式の写真も送って下さいました。合唱曲のおかげで憲法作成に力を尽くした方の家族とつながったのは何か不思議な気がしますが、この時期、日本国憲法をもっと大事に、ということだと思います.。 芝憲子(詩人)
(「うたごえ新聞」 2021年9月6日号)
合唱曲と シロタ ゴードン タワー
「孫とピアノ曲・憲法」
新型コロナウイルスのためコンサートや合唱の練習が思うようにならない毎日ですが、作曲家の先生方の創作意欲は衰えることがないようです。昨年、私は「孫とピアノ曲・憲法」という、ひとつの歌にするには長い、元は『詩人会議』に発表した、かなり変わった詞を大西進先生におそるおそるお送りしました。ところがほんの数日で、「メロディーができました」とファクスが来て驚きました。「孫とピアノ曲・憲法」には、瀬長カメジローや平塚らいてう、レオ・シロタらが出てきます。レオ・シロタは、日本国憲法の作成に力を尽くしたベアテ・シロタ・ゴードンのお父さんで、東京音楽学校の先生でした。ベアテは日本で五歳から十五歳まで生活し、日本の女性の地位が低いのを見聞きしていました。私は詞に「特に二四条 両性の平等はベアテなしには入らなった 亡くなる十日前も 日本国憲法を他国のモデルに と話した 孫はニコール・ゴードン ニューヨークの女性弁護士・・・・ピアノの調べが流れていく なめらかに ダイナミックに…・・戦争へは二度ともどさないベアテの情熱・・・」と書き、憲法の精神が私たちの孫子の代まで続くように願いを込めました。
私はこの合唱曲のことを、できたらニコールさんへ直接お知らせしたいと、「新婦人新聞」の編集部にメルアドをお聞きし、メールしました。翌日すぐメールが来て、大変喜んで下さり、曲を聞きたい、というお返事でした。沖縄の平和コンサートに来られた「コールかるがも」が、大西先生の指揮で今年から練習を始めましたが、休み休みで、大変そうでした。そこへ、七月三日、急にニコールさんからメールで、《日本のアメリカ大使館の施設をベアテの功績にちなんで「シロタ ゴードン タワー」と名付けます。最終選考で選ばれました。命名式を、七月二〇日に行います。メインゲートは「シロタ ゴードン ゲート」と名付けます。》という、大使館からの知らせを教えて下さいました。私などあまり近づきたくない(?)アメリカ大使館もイキなことをするものです。ニコールさんは式にはいらっしゃれないようでしたが、大西先生へお知らせすると、合唱の録音が七月二〇日までに間に合えば一番いい、ということになり、予定を早めて下さいました。普通の歌の三倍は長いこの曲を「コールかるがも」の皆さんが歌い、録音し、すぐにCD化して送って下さいました。力強い、壮大な合唱曲になっていて感激しました。私はCDを郵送する傍ら、、パソコンでメールにのせてニコールさんにお送りしました。感想が届きました。「この曲を作曲し、参加されたすべての方々のご努力に深く感謝します。音楽は強く、深く感動させられます。言葉は大変意味深く、平和と未来への希望の主題に、ピアノを演奏するところが大変興味深い。ベアテは心を動かされたでしょう。“イッショウケンメイ”といつも言っていました・・・」 「シロタ ゴードン タワー」の命名式の写真も送って下さいました。合唱曲のおかげで憲法作成に力を尽くした方の家族とつながったのは何か不思議な気がしますが、この時期、日本国憲法をもっと大事に、ということだと思います.。 芝憲子(詩人)
(「うたごえ新聞」 2021年9月6日号)
2021年07月27日
サンマデモクラシー
映画評 「民主主義とは 痛快に語る」
沖縄で1960年代に起こった「サンマ裁判」の顛末を追ったドキュメンタリーです。糸満の魚卸業の女性、玉城(たましろ)ウシが、サンマにかかっていた関税を7000万円を、還付するよう訴えた珍しくも愉快な裁判です。琉球政府の上にはアメリカの高等弁務官が君臨し、布令を出して人々を縛っていました。その布令17号で関税をかけた英語の魚のリストにサンマがないことがわかり、玉城が怒り、払った税金を返せと訴えました。宮古島出身の弁護士下里(しもざと)恵(けい)良(りょう)が支えました。話が大きい豪快な弁護士であり保守系の政治家でもありました。2人とも、「自治は神話である」とまで言った 高等弁務官キャラウェイに対し、一歩も引かず、人民党の瀬長亀次郎も応援しました。瀬長は那覇市長の座を布令により追放され、アメリカの民主主義が欺瞞であることを見抜いていました。サンマ裁判は、祖国復帰、自治権獲得運動の発端の一つになり、教公二法反対や島ぐるみ闘争に発展、真の民主主義を、という長い闘いに続きます。裁判のアメリカ移送に沖縄の全裁判官が抗議の署名。翁長知事は菅官房長官と会談したとき「キャラウェイのようだ」と発言し、平良修牧師は本人の前で「最後の高等弁務官になりますように」と祈りました。時の権力者に立ち向かう沖縄には元々オール沖縄の根があるのです。落語「目黒のサンマ」になぞらえたナビゲーターもユニークで 痛快な話の中、「民主主義とは」と考えさせるすぐれたドキュメンタリーです。
(芝憲子 詩人)
(「赤旗」 2021.7.14 )
沖縄で1960年代に起こった「サンマ裁判」の顛末を追ったドキュメンタリーです。糸満の魚卸業の女性、玉城(たましろ)ウシが、サンマにかかっていた関税を7000万円を、還付するよう訴えた珍しくも愉快な裁判です。琉球政府の上にはアメリカの高等弁務官が君臨し、布令を出して人々を縛っていました。その布令17号で関税をかけた英語の魚のリストにサンマがないことがわかり、玉城が怒り、払った税金を返せと訴えました。宮古島出身の弁護士下里(しもざと)恵(けい)良(りょう)が支えました。話が大きい豪快な弁護士であり保守系の政治家でもありました。2人とも、「自治は神話である」とまで言った 高等弁務官キャラウェイに対し、一歩も引かず、人民党の瀬長亀次郎も応援しました。瀬長は那覇市長の座を布令により追放され、アメリカの民主主義が欺瞞であることを見抜いていました。サンマ裁判は、祖国復帰、自治権獲得運動の発端の一つになり、教公二法反対や島ぐるみ闘争に発展、真の民主主義を、という長い闘いに続きます。裁判のアメリカ移送に沖縄の全裁判官が抗議の署名。翁長知事は菅官房長官と会談したとき「キャラウェイのようだ」と発言し、平良修牧師は本人の前で「最後の高等弁務官になりますように」と祈りました。時の権力者に立ち向かう沖縄には元々オール沖縄の根があるのです。落語「目黒のサンマ」になぞらえたナビゲーターもユニークで 痛快な話の中、「民主主義とは」と考えさせるすぐれたドキュメンタリーです。
(芝憲子 詩人)
(「赤旗」 2021.7.14 )
2021年07月27日
ボールペンの芯
(前に 「南部の土砂」 の項で出した、同じタイトルの詩をまた出してしまったので、消したいのですが、できず、この前書きを書いています。
ダブっています。)
ボールペンの芯
芝憲子
小学校に入学したとき
母が
新しい鉛筆をナイフで
それはそれはきれいに削ってくれた
それから削り方を教えてくれた
はじめデコボコでまるできたなかったが
だんだん上手にけずれるようになった
芯は紙の上に立ててナイフでとがらせた
なんとかできるようになるとうれしかった
ナイフもいつも筆箱に入れた
中学生のころ
社会党の党首 浅沼稲次郎が
一七才の少年に刺されて亡くなった
学校にナイフを持ってくるのが禁止された
いま
鉛筆も万年筆もほとんど使わなくなり
なんでもボールペンだ
ガマフヤーの具志堅さんは言う
南部の土砂から
人の骨を取り出すのはむずかしい
政府が「業者にさせる」と言った段階で
すでに遺骨を区別する気がないのだ
土砂をショベルカーですくって
骨を取り分けられるはずがない
慣れた人がていねいに見てもむずかしい
子どもの指は
ボールペンの芯ほどの細さだ と
細い 軽い 子どもたちの骨
お母さんと手をつなぎ
鉛筆をもちたかった指 指 指
書けなくなったボールペンを捨てるとき
透き通った芯が
きゅっと 音をたてる気がする
( 『1/2』64号)
2021年07月04日
今 沖縄
沖縄から 今
芝憲子
芝憲子
沖縄はコロナ禍の中、六月二三日の慰霊の日を迎えます。五月から梅雨で、沖縄の梅雨は一日中シトシト降るのではなく、強い雨が時々降ります。雨が、よけいに、沖縄戦で亡くなったり、逃げ惑った方達のことを思い出させます。今年になって、沖縄戦で亡くなられた方達の遺骨が残っている南部の土砂を、辺野古新基地の埋め立てに使う計画が表面化し、人道的に許されない、と、大きな反対の動きが起こりました。遺骨収集のガマフヤーの具志堅隆松さんらがハンガーストライキを行い、一挙に関心を高め共感を広げました。私も具志堅さんにお会いしてお話を伺い、学習会にも参加しました。でも実際に土砂をとる場所には行っていなかったので。先日、三七年続く金曜反核昼休みデモのあと、沖縄詩人会議の小林嘉則さんに連れて行っていただきました。特に問題になっている熊野鉱山の所に行きました。それは「米須(こめす)霊域」にあり、沖縄で一番沢山の方達が亡くなったので、いくつもの慰霊碑が立つ場所です。熊野鉱山の用地は、魂魄(こんぱく)の塔の本当にすぐ裏でした。魂魄の塔は、戦後最初に沢山の遺骨を入れた所で、収集にあたった翁長自修氏(故翁長知事の父)の歌碑があります。私は沖縄に復帰直前に来たのですが、来てまもなく、この魂魄の塔は特別重要な塔だと説明されました。慰霊の日にはそばで毎年平和コンサートが開かれ、私もよく聞きに来ました。別の慰霊の歩きで、新婦人の会の会が、三線の川崎善美さんを中心に歌いながら歩くことは今年もできるようです。その魂魄の塔の裏に「熊野鉱山」と看板が立ち、すでに林が削られていました。買い取った農地にトラックが通れる道路を作ろうとして、それは違法なので糸満市で問題となり、土砂採掘が止まっています。土砂というので砂地をイメージしていましたが、普通の堅い土で、草が生え、とても遺骨を区別できるものではありません。林の前には、群生した大きな葉のクワズイモと月桃があり、月桃の花は満開でした。具志堅さんはこの地でも遺骨収集なさっていたということで、その土や石が掘られて辺野古に行くのはがまんできないことです。自分の家族が南部で亡くなって遺骨がわからない方の方が多いのですから、その土砂が辺野古に運ばれて米軍基地になるのは「二度殺される」と怒るわけです。
今回、沖縄うたごえ協議会の石垣潔さんから、合唱組曲作詞のお話が出たとき、私はこのように沖縄戦が根底にあるだけに平和への思いが非常に強い沖縄のことを、誇れるものとして発信したいと思いました。辺野古や高江の基地反対運動はコロナ禍でも続いています。世界の人々を励ましています。今まで全国のうたごえ運動の方々も大勢沖縄にみえ、特に辺野古の座り込みに参加し、歌を歌ってくださいました。こうして、沖縄に毎年みえて縁の深い池辺晋一郎先生作曲で、「沖縄は叫ぶ」という六楽章の混声合唱組曲ができました。タイトルは池辺先生がつけられました。六楽章の内容は、「おかあさん」「四〇〇の御霊(みたま)」「オキナワというだけで」「辺野古あなたのぶんも」「空は起きたて」「沖縄から世界へ」です。コロナで発表が延び延びになっていましたが、今年九月二〇日、神戸新聞松方ホールで、沖縄では、来年中に募集する団員により、池辺先生指揮で公演されます。詞の最後のように、「わたしたちのおおきな平和の魂を 沖縄から世界へ」伝わりますように。
(『うたごえ新聞』2021.6.21号)
芝憲子
芝憲子
沖縄はコロナ禍の中、六月二三日の慰霊の日を迎えます。五月から梅雨で、沖縄の梅雨は一日中シトシト降るのではなく、強い雨が時々降ります。雨が、よけいに、沖縄戦で亡くなったり、逃げ惑った方達のことを思い出させます。今年になって、沖縄戦で亡くなられた方達の遺骨が残っている南部の土砂を、辺野古新基地の埋め立てに使う計画が表面化し、人道的に許されない、と、大きな反対の動きが起こりました。遺骨収集のガマフヤーの具志堅隆松さんらがハンガーストライキを行い、一挙に関心を高め共感を広げました。私も具志堅さんにお会いしてお話を伺い、学習会にも参加しました。でも実際に土砂をとる場所には行っていなかったので。先日、三七年続く金曜反核昼休みデモのあと、沖縄詩人会議の小林嘉則さんに連れて行っていただきました。特に問題になっている熊野鉱山の所に行きました。それは「米須(こめす)霊域」にあり、沖縄で一番沢山の方達が亡くなったので、いくつもの慰霊碑が立つ場所です。熊野鉱山の用地は、魂魄(こんぱく)の塔の本当にすぐ裏でした。魂魄の塔は、戦後最初に沢山の遺骨を入れた所で、収集にあたった翁長自修氏(故翁長知事の父)の歌碑があります。私は沖縄に復帰直前に来たのですが、来てまもなく、この魂魄の塔は特別重要な塔だと説明されました。慰霊の日にはそばで毎年平和コンサートが開かれ、私もよく聞きに来ました。別の慰霊の歩きで、新婦人の会の会が、三線の川崎善美さんを中心に歌いながら歩くことは今年もできるようです。その魂魄の塔の裏に「熊野鉱山」と看板が立ち、すでに林が削られていました。買い取った農地にトラックが通れる道路を作ろうとして、それは違法なので糸満市で問題となり、土砂採掘が止まっています。土砂というので砂地をイメージしていましたが、普通の堅い土で、草が生え、とても遺骨を区別できるものではありません。林の前には、群生した大きな葉のクワズイモと月桃があり、月桃の花は満開でした。具志堅さんはこの地でも遺骨収集なさっていたということで、その土や石が掘られて辺野古に行くのはがまんできないことです。自分の家族が南部で亡くなって遺骨がわからない方の方が多いのですから、その土砂が辺野古に運ばれて米軍基地になるのは「二度殺される」と怒るわけです。
今回、沖縄うたごえ協議会の石垣潔さんから、合唱組曲作詞のお話が出たとき、私はこのように沖縄戦が根底にあるだけに平和への思いが非常に強い沖縄のことを、誇れるものとして発信したいと思いました。辺野古や高江の基地反対運動はコロナ禍でも続いています。世界の人々を励ましています。今まで全国のうたごえ運動の方々も大勢沖縄にみえ、特に辺野古の座り込みに参加し、歌を歌ってくださいました。こうして、沖縄に毎年みえて縁の深い池辺晋一郎先生作曲で、「沖縄は叫ぶ」という六楽章の混声合唱組曲ができました。タイトルは池辺先生がつけられました。六楽章の内容は、「おかあさん」「四〇〇の御霊(みたま)」「オキナワというだけで」「辺野古あなたのぶんも」「空は起きたて」「沖縄から世界へ」です。コロナで発表が延び延びになっていましたが、今年九月二〇日、神戸新聞松方ホールで、沖縄では、来年中に募集する団員により、池辺先生指揮で公演されます。詞の最後のように、「わたしたちのおおきな平和の魂を 沖縄から世界へ」伝わりますように。
(『うたごえ新聞』2021.6.21号)
2021年07月04日
現実を元に自由に
現実を元に自由に
芝憲子 芝憲子
このごろあまり色々考えずに詩を書いています。何となくこのことが書きたい気がする、という感覚で書きはじめています。詩作の方法も、自由に書きやすい方法で書いています。ただ、現実と詩については、以前から変わらない考え方なので、以前書いたものを確かめました。「新しい現実の中での詩への反映」というタイトルで、『詩人会議』に1978年に書いています。「詩と現実について、私に言えることは簡単なことしかありません。夢も現実がもとになって見るのだ、ということと、もう一つは、詩のフィクションの世界も現実感がなけれぼ感動しない、ということです。眠ったときに意識下の夢を見る場合も、不思議なことですが、現実にあるものに全く無関係な夢というのは見ようがありません。まして詩は、ことばという十分意識した機能を使って作るのだから、作者の現実の体験なり考え方が大きく反映します。だから私はその『元』をできるだけしっかり捉えたいと思っています。現実の自分を規定する社会的、歴史的な位置もできるだけはっきりさせたいと思っています。そういうことが詩に現実感を持たせる結果につながると思っています。また、現実、現実と声高にいうと、何か夢や想像を軽視したりするような傾向にとられると困るのであり、原則的には現実を深くとらえればそれだけ想像も豊かに働くはずです。」
遺骨、遺品について
沖縄ではご承知のように、今、沖縄戦の遺骨が混じった南部の土砂を辺野古の埋め立てに使わせない、という動きが大きく広がっています。新基地に反対でない人でも、それは許せないと、県議会でも全会一致で意見書が可決されました。遺骨収集のガマフヤーの具志堅隆松さんがハンガーストライキを行い、共感を集めました。私はこの現実に、自分の詩がらみで関わらずにはいられません。私が七〇年代に書いた詩「骨のカチャーシー」は、沖縄戦で亡くなった方の骨が夜になるとカチャーシーを踊る、という内容だからです。私は「俺たちはいつまでもここにいる ここで殺されたと証明するために 殺した奴らを忘れないために 簡単に拾われて神社にまつられたりしない」と書きました。私が実際に見た一体の遺骨も南部の山にありました。作家の嶋津与志さんに案内されました。遺骨のそばには新しい豆球が落ちていたので、嶋さんは、自分のほかにも前にカメラマンなどが来たのだろう、これは日本兵の遺骨だろうとおっしゃっていました。遺骨は野ざらしのままで、私は「野ざらし」という詩も書きました。骨がつながってフラフラする、踊るというのは、私が夜見た夢だったと思います。自分が日本兵の骨になったつもりの想像で書きました。しかし、具志堅さんたちは、遺骨は遺族に返すのが本来で、ガマの中のは掘り出して返したい、と一生をかけてその仕事をなさっています。私の詩のように「いつまでもそこにいる」のは不本意なのです。現実についての認識が変わってきます。。具志堅さんとは、以前辺野古行きのバスで何度かご一緒していて、今回のハンストのときもお会いしてお話ししました。DNA検査ができるように、保存の遺骨が700体もあるそうです。そしてそばにあった遺品は拾わず、「そこに倒れていた証拠になるから」とおっしゃっていました。お話のごく一部を元に詩「ボールペン」を書きました。(詩誌『1/2』64号)
さらに土砂問題の少し前から、国吉勇さんという沖縄戦の遺品をものすごく保管している方がいて、驚嘆していました。具志堅さんの先輩にあたるような方で、遺骨収集を六〇年以上した方です。遺骨は県や国の施設に収め、遺品を預かるところがなくて自宅に保管なさっているのです。ものすごい量で十数万点だそうです。自宅を戦争資料館として訪れる人に見せていたのですが、遺品を持っていく人が出たため一般には閉めています。私は詩「国吉さんの家」を『詩人会議』6月号に書きました。個人の家にこれ以上保管は無理で、早く公的な所に移さければなりません。最近、写真集『沖縄戦の戦争遺品』(豊里友行 写真と解説、新日本出版社)が出版され、国吉さんの驚異的な仕事が明らかになりました。遺品が散逸しないように保管場所の確保が急がれます。
(『詩人会議』 2021,7月号)
芝憲子 芝憲子
このごろあまり色々考えずに詩を書いています。何となくこのことが書きたい気がする、という感覚で書きはじめています。詩作の方法も、自由に書きやすい方法で書いています。ただ、現実と詩については、以前から変わらない考え方なので、以前書いたものを確かめました。「新しい現実の中での詩への反映」というタイトルで、『詩人会議』に1978年に書いています。「詩と現実について、私に言えることは簡単なことしかありません。夢も現実がもとになって見るのだ、ということと、もう一つは、詩のフィクションの世界も現実感がなけれぼ感動しない、ということです。眠ったときに意識下の夢を見る場合も、不思議なことですが、現実にあるものに全く無関係な夢というのは見ようがありません。まして詩は、ことばという十分意識した機能を使って作るのだから、作者の現実の体験なり考え方が大きく反映します。だから私はその『元』をできるだけしっかり捉えたいと思っています。現実の自分を規定する社会的、歴史的な位置もできるだけはっきりさせたいと思っています。そういうことが詩に現実感を持たせる結果につながると思っています。また、現実、現実と声高にいうと、何か夢や想像を軽視したりするような傾向にとられると困るのであり、原則的には現実を深くとらえればそれだけ想像も豊かに働くはずです。」
遺骨、遺品について
沖縄ではご承知のように、今、沖縄戦の遺骨が混じった南部の土砂を辺野古の埋め立てに使わせない、という動きが大きく広がっています。新基地に反対でない人でも、それは許せないと、県議会でも全会一致で意見書が可決されました。遺骨収集のガマフヤーの具志堅隆松さんがハンガーストライキを行い、共感を集めました。私はこの現実に、自分の詩がらみで関わらずにはいられません。私が七〇年代に書いた詩「骨のカチャーシー」は、沖縄戦で亡くなった方の骨が夜になるとカチャーシーを踊る、という内容だからです。私は「俺たちはいつまでもここにいる ここで殺されたと証明するために 殺した奴らを忘れないために 簡単に拾われて神社にまつられたりしない」と書きました。私が実際に見た一体の遺骨も南部の山にありました。作家の嶋津与志さんに案内されました。遺骨のそばには新しい豆球が落ちていたので、嶋さんは、自分のほかにも前にカメラマンなどが来たのだろう、これは日本兵の遺骨だろうとおっしゃっていました。遺骨は野ざらしのままで、私は「野ざらし」という詩も書きました。骨がつながってフラフラする、踊るというのは、私が夜見た夢だったと思います。自分が日本兵の骨になったつもりの想像で書きました。しかし、具志堅さんたちは、遺骨は遺族に返すのが本来で、ガマの中のは掘り出して返したい、と一生をかけてその仕事をなさっています。私の詩のように「いつまでもそこにいる」のは不本意なのです。現実についての認識が変わってきます。。具志堅さんとは、以前辺野古行きのバスで何度かご一緒していて、今回のハンストのときもお会いしてお話ししました。DNA検査ができるように、保存の遺骨が700体もあるそうです。そしてそばにあった遺品は拾わず、「そこに倒れていた証拠になるから」とおっしゃっていました。お話のごく一部を元に詩「ボールペン」を書きました。(詩誌『1/2』64号)
さらに土砂問題の少し前から、国吉勇さんという沖縄戦の遺品をものすごく保管している方がいて、驚嘆していました。具志堅さんの先輩にあたるような方で、遺骨収集を六〇年以上した方です。遺骨は県や国の施設に収め、遺品を預かるところがなくて自宅に保管なさっているのです。ものすごい量で十数万点だそうです。自宅を戦争資料館として訪れる人に見せていたのですが、遺品を持っていく人が出たため一般には閉めています。私は詩「国吉さんの家」を『詩人会議』6月号に書きました。個人の家にこれ以上保管は無理で、早く公的な所に移さければなりません。最近、写真集『沖縄戦の戦争遺品』(豊里友行 写真と解説、新日本出版社)が出版され、国吉さんの驚異的な仕事が明らかになりました。遺品が散逸しないように保管場所の確保が急がれます。
(『詩人会議』 2021,7月号)
2021年06月19日
南部の土砂
ボールペンの芯
芝憲子
小学校に入学したとき
母が
新しい鉛筆をナイフで
それはそれはきれいに削ってくれた
それから削り方を教えてくれた
はじめデコボコでまるできたなかったが
だんだん上手にけずれるようになった
芯は紙の上に立ててナイフでとがらせた
なんとかできるようになるとうれしかった
ナイフもいつも筆箱に入れた
中学生のころ
社会党の党首 浅沼稲次郎が
一七才の少年に刺されて亡くなった
学校にナイフを持ってくるのが禁止された
いま
鉛筆も万年筆もほとんど使わなくなり
なんでもボールペンだ
ガマフヤーの具志堅さんは言う
南部の土砂から
人の骨を取り出すのはむずかしい
政府が「業者にさせる」と言った段階で
すでに遺骨を区別する気がないのだ
土砂をショベルカーですくって
骨を取り分けられるはずがない
慣れた人がていねいに見てもむずかしい
子どもの指は
ボールペンの芯ほどの細さだ と
細い 軽い 子どもたちの骨
お母さんと手をつなぎ
鉛筆をもちたかった指 指 指
書けなくなったボールペンを捨てるとき
透き通った芯が
きゅっと 音をたてる気がする
(『1/2』第64号より 2021.6月 )
芝憲子
小学校に入学したとき
母が
新しい鉛筆をナイフで
それはそれはきれいに削ってくれた
それから削り方を教えてくれた
はじめデコボコでまるできたなかったが
だんだん上手にけずれるようになった
芯は紙の上に立ててナイフでとがらせた
なんとかできるようになるとうれしかった
ナイフもいつも筆箱に入れた
中学生のころ
社会党の党首 浅沼稲次郎が
一七才の少年に刺されて亡くなった
学校にナイフを持ってくるのが禁止された
いま
鉛筆も万年筆もほとんど使わなくなり
なんでもボールペンだ
ガマフヤーの具志堅さんは言う
南部の土砂から
人の骨を取り出すのはむずかしい
政府が「業者にさせる」と言った段階で
すでに遺骨を区別する気がないのだ
土砂をショベルカーですくって
骨を取り分けられるはずがない
慣れた人がていねいに見てもむずかしい
子どもの指は
ボールペンの芯ほどの細さだ と
細い 軽い 子どもたちの骨
お母さんと手をつなぎ
鉛筆をもちたかった指 指 指
書けなくなったボールペンを捨てるとき
透き通った芯が
きゅっと 音をたてる気がする
(『1/2』第64号より 2021.6月 )
2021年05月22日
国吉さんの家
国吉さんの家
芝憲子
建物の一階部分すべて
天井のきわまでぎっしり
国吉勇さんが
六十年以上にわたり掘り出したものたち
きちんと並んだ数えきれない薬品のビン、
食器、飯盒、印鑑、万年筆、水筒,、靴、注射針、
時計、メガネ、薬莢、二十本のさびた軍刀、
手榴弾、弾丸、銃、防毒マスク、地雷・・・
国吉さんは白いペンキで場所や名前を書いた
「平成十五年八月 城岳病院壕」
「戦時中のアンプル」「戦時中の手榴弾」
十数万点 見たことがない大量
家が倒れそうだ
皇族も泊まるハーバービューホテルの裏
小さな木の看板に薄くなった文字「戦争資料館」
シロアリ駆除の会社でもあり机と電話がある
三男の三雄さんが受け継ぎ
家族で仕事をしている
国吉勇さん
家族五人 母 兄 弟 祖母 めい を
沖縄戦でなくした
高校時代から壕(ガマ)に入り遺品を保存した
遺品が家族に返ったときのお礼の言葉がよろこび
今はお話も不自由になり
日中はデイサービスでここにはいらっしゃらない
いるのは
すきまなく ぎっしり のしかかる
執念と 予兆と
いま 戦時中
(『詩人会議』 2021.6月号)
芝憲子
建物の一階部分すべて
天井のきわまでぎっしり
国吉勇さんが
六十年以上にわたり掘り出したものたち
きちんと並んだ数えきれない薬品のビン、
食器、飯盒、印鑑、万年筆、水筒,、靴、注射針、
時計、メガネ、薬莢、二十本のさびた軍刀、
手榴弾、弾丸、銃、防毒マスク、地雷・・・
国吉さんは白いペンキで場所や名前を書いた
「平成十五年八月 城岳病院壕」
「戦時中のアンプル」「戦時中の手榴弾」
十数万点 見たことがない大量
家が倒れそうだ
皇族も泊まるハーバービューホテルの裏
小さな木の看板に薄くなった文字「戦争資料館」
シロアリ駆除の会社でもあり机と電話がある
三男の三雄さんが受け継ぎ
家族で仕事をしている
国吉勇さん
家族五人 母 兄 弟 祖母 めい を
沖縄戦でなくした
高校時代から壕(ガマ)に入り遺品を保存した
遺品が家族に返ったときのお礼の言葉がよろこび
今はお話も不自由になり
日中はデイサービスでここにはいらっしゃらない
いるのは
すきまなく ぎっしり のしかかる
執念と 予兆と
いま 戦時中
(『詩人会議』 2021.6月号)
2021年03月13日
インターネットがつながって
ここ4,5日 インターネットがつながらなくて、毎日なおそうと格闘していました。
さっき、やっとなおったので、ほんとうにホッとしました。今までも年に2回位トラブルがあって、
そのたびに、なんとか自分で直しました。業者にたのもうとあきらめかけていたのですが、なおって、よかったです。
その間に、ブログを見てくださった、加藤さん、お手紙をありがとうございました。私の歌詞のメールも付いたようで、よかったです。
また、山形のセンター合唱団の早坂さんが沖縄に来られ、先日の私達新婦人のコーラスの練習に参加されました。越冬だそうで、
ご夫婦で、昨年も見えた方です。大西進先生作曲、私作詞の楽譜を3種類ぐらい持っていかれました。
ついでに、沖縄の春には、本土の花粉症から避難されてみえる方が、毎年おられます。今年はコロナで、往来も不自由ですが。
先週は、ガマフヤーの具志堅さんのハンストー南部の遺骨交じりの土砂を辺野古の埋め立てに使うことへの抗議ーがありました。
激励に行って、署名をしました。来週も15日から集会等があるようです。
さっき、やっとなおったので、ほんとうにホッとしました。今までも年に2回位トラブルがあって、
そのたびに、なんとか自分で直しました。業者にたのもうとあきらめかけていたのですが、なおって、よかったです。
その間に、ブログを見てくださった、加藤さん、お手紙をありがとうございました。私の歌詞のメールも付いたようで、よかったです。
また、山形のセンター合唱団の早坂さんが沖縄に来られ、先日の私達新婦人のコーラスの練習に参加されました。越冬だそうで、
ご夫婦で、昨年も見えた方です。大西進先生作曲、私作詞の楽譜を3種類ぐらい持っていかれました。
ついでに、沖縄の春には、本土の花粉症から避難されてみえる方が、毎年おられます。今年はコロナで、往来も不自由ですが。
先週は、ガマフヤーの具志堅さんのハンストー南部の遺骨交じりの土砂を辺野古の埋め立てに使うことへの抗議ーがありました。
激励に行って、署名をしました。来週も15日から集会等があるようです。
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2021年03月06日
すがすがしくないスガの素顔
すがすがしくないスガの素顔
芝憲子
総理官邸の自室にニヤニヤ顔で入る
やれやれ 白いマスクをとると下にアベノマスク
そうだった
ちいさなマスクをとろうとすると
さらにまたアベノマスク
しかも忖度のウイルスつき
そういえば自助で 自分でつけたのだった
森友も加計も桜ももちろん自分の手のあと
日本海の水で流そうとするが流れない
しかたない 使いすぎてよごれたアベノマスクの上に
スガノマスクをつけ 名簿と予算をチェック
「安保法制や共謀罪に反対するものはばっさり切る
日本学術会議は手はじめだ
日本会議系にどんどん予算をつけるのだ
公明党には近いが公明正大には遠いのだ
うるさいのはチャースガ(どうする) チャースガ と迫る沖縄県民
辺野古がダイダイ無駄づかいなのはわかっている
大人気の翁長氏が早く亡くなってたすかった
オスプレイ用の狭いヘリパッド位できるかもしれない
あとで自衛隊が使えるぞ
浦添に 辺野古より完全な
核積載空母が来る最新鋭軍港をつくるのだ
沖縄県民も辺野古ほど反対しない
我ながら頭がいい
ケイタイ代を安くして目くらましだ
郵政こわしの小泉純一郎になど負けはしない
小泉純一郎は今は原発に反対したりして無節操だ
日本の権力者はアメリカの武器を買い
原発産業に貢献しなければ成りたたないのだ
核兵器禁止条約がホンジュラスを50番目に批准され
ほんとに残念 俺はトランプの裏をめくって
アメリカ追随財界ファーストでいくんだ んだんだ
俺がめざすのは 菅ウルトラ右翼長期政権
まわりの先輩が 次は河野太郎とか岸田文雄とか
ポストポストと言っているがまあ今は言わせておけ
目的のために手段を選ばないマキャベリの方法を
俺ほど身につけた者はいない
最後に悪者 ではない 笑う者 はここにいる
庶民イメージのパンケーキ2800円はばれたが
あとはオフレコ 俺がアメリカの小麦粉まみれ
権力欲まみれなのはまだばれない
使った官房機密費6年間で76億円 次ももらった
サスガだね 俺 スガ ヨシ!」
私たちの声 「アベよりひどいスガはさっさとさがれ
♪ はーるになれば すがこ(シガコ・氷)もとけて 菅こも消えて
どじょっこだのふなっこだの夜があけたとおもうべな」
(「いのちの籠」第47号 2021.2 )
芝憲子
総理官邸の自室にニヤニヤ顔で入る
やれやれ 白いマスクをとると下にアベノマスク
そうだった
ちいさなマスクをとろうとすると
さらにまたアベノマスク
しかも忖度のウイルスつき
そういえば自助で 自分でつけたのだった
森友も加計も桜ももちろん自分の手のあと
日本海の水で流そうとするが流れない
しかたない 使いすぎてよごれたアベノマスクの上に
スガノマスクをつけ 名簿と予算をチェック
「安保法制や共謀罪に反対するものはばっさり切る
日本学術会議は手はじめだ
日本会議系にどんどん予算をつけるのだ
公明党には近いが公明正大には遠いのだ
うるさいのはチャースガ(どうする) チャースガ と迫る沖縄県民
辺野古がダイダイ無駄づかいなのはわかっている
大人気の翁長氏が早く亡くなってたすかった
オスプレイ用の狭いヘリパッド位できるかもしれない
あとで自衛隊が使えるぞ
浦添に 辺野古より完全な
核積載空母が来る最新鋭軍港をつくるのだ
沖縄県民も辺野古ほど反対しない
我ながら頭がいい
ケイタイ代を安くして目くらましだ
郵政こわしの小泉純一郎になど負けはしない
小泉純一郎は今は原発に反対したりして無節操だ
日本の権力者はアメリカの武器を買い
原発産業に貢献しなければ成りたたないのだ
核兵器禁止条約がホンジュラスを50番目に批准され
ほんとに残念 俺はトランプの裏をめくって
アメリカ追随財界ファーストでいくんだ んだんだ
俺がめざすのは 菅ウルトラ右翼長期政権
まわりの先輩が 次は河野太郎とか岸田文雄とか
ポストポストと言っているがまあ今は言わせておけ
目的のために手段を選ばないマキャベリの方法を
俺ほど身につけた者はいない
最後に悪者 ではない 笑う者 はここにいる
庶民イメージのパンケーキ2800円はばれたが
あとはオフレコ 俺がアメリカの小麦粉まみれ
権力欲まみれなのはまだばれない
使った官房機密費6年間で76億円 次ももらった
サスガだね 俺 スガ ヨシ!」
私たちの声 「アベよりひどいスガはさっさとさがれ
♪ はーるになれば すがこ(シガコ・氷)もとけて 菅こも消えて
どじょっこだのふなっこだの夜があけたとおもうべな」
(「いのちの籠」第47号 2021.2 )
2021年03月06日
ジョニ黒
ジョニ黒
芝憲子
戦後七五年も終わるころ
ジョニ黒の古酒(クース)がうちに来た
知り合いが夫にくださった一本
RYUKYUと日付けの印鑑が押してある
税関のものらしい
復帰前 本土にジョニ黒を持っていくと
高額で売れたという
小学生のころ
ジョニ黒が世界一の高級酒だと思っていた
京都出身で船長だった叔父が
川崎にみやげにもってきては
ジョニ赤とか ジョニ黒とか自慢した
父はとても喜び
七酌と決めていた日本酒の晩酌を変えた
床の間にビンのラベルを見せて飾ったりした
わたしにはジョニ黒は魅力の外国で
船長にという夢もたまに見た
中学生のころ 繰り返し味わった外国は
映画「砂漠は生きている」
船員の物語「モンテ・クリスト伯」
北杜夫の「ドクトル・マンボウ航海記」・・・
船長の夢は見なくなった
復帰直前の沖縄に
パスポートをもち
二泊三日の船に乗って来た
外国のウイスキーがごく身近で
男性たちは
復帰したらジョニー・ウオーカーも飲めなくなると
ビンを抱いたりした
島が船
記憶の断片を注ぐジョニー
空ビンを捨てられず
食器棚の奥にしまった
ガラスの内側に四角いビンが座っている
(『縄』第40号 2020.12.29)
芝憲子
戦後七五年も終わるころ
ジョニ黒の古酒(クース)がうちに来た
知り合いが夫にくださった一本
RYUKYUと日付けの印鑑が押してある
税関のものらしい
復帰前 本土にジョニ黒を持っていくと
高額で売れたという
小学生のころ
ジョニ黒が世界一の高級酒だと思っていた
京都出身で船長だった叔父が
川崎にみやげにもってきては
ジョニ赤とか ジョニ黒とか自慢した
父はとても喜び
七酌と決めていた日本酒の晩酌を変えた
床の間にビンのラベルを見せて飾ったりした
わたしにはジョニ黒は魅力の外国で
船長にという夢もたまに見た
中学生のころ 繰り返し味わった外国は
映画「砂漠は生きている」
船員の物語「モンテ・クリスト伯」
北杜夫の「ドクトル・マンボウ航海記」・・・
船長の夢は見なくなった
復帰直前の沖縄に
パスポートをもち
二泊三日の船に乗って来た
外国のウイスキーがごく身近で
男性たちは
復帰したらジョニー・ウオーカーも飲めなくなると
ビンを抱いたりした
島が船
記憶の断片を注ぐジョニー
空ビンを捨てられず
食器棚の奥にしまった
ガラスの内側に四角いビンが座っている
(『縄』第40号 2020.12.29)
2021年03月06日
ポストの口
ポストの口
芝憲子
家々のポストの口
たまに
「ありがとう」
「ごくろうさま」など書いてある
気持ちがよい
チラシを丁寧に入れる
「チラシ不要」「チラシお断り」は普通
ハイハイ入れません
「チラシ入れるな!」「大迷惑」
「法的措置をとる」もマンションによく掲示
なかには
「警察に連絡する」
「着払いで送り返す」
そこまでやるか 役にたつ情報もあるのに
いつもひとりで笑ってしまうのが
宗教系の建物
白い壁にものすごく大きく黒々と
「信じる者は救われる」とあり
あーそうねえ と
チラシを入れようとすると
ポストの口の真下に赤い字で
「防犯カメラ作動中」!
世の中矛盾だらけだからね
わたしがポストなら
税金のとくそく状には口を閉じる
県を越えて「差押えする」とせまる手紙
辺野古や高江に無駄な税金を使ってさ
借金のさいそく状にも口を閉じる
利子を払うのが精いっぱいで
元金は減らず 一生縛られる
あったらいいのに
「打ち出の小づち 受付作動中」
時代のポストの口があいている
マスク人間になって立ち止まる
(『1/2』第63号 2021.2月)
芝憲子
家々のポストの口
たまに
「ありがとう」
「ごくろうさま」など書いてある
気持ちがよい
チラシを丁寧に入れる
「チラシ不要」「チラシお断り」は普通
ハイハイ入れません
「チラシ入れるな!」「大迷惑」
「法的措置をとる」もマンションによく掲示
なかには
「警察に連絡する」
「着払いで送り返す」
そこまでやるか 役にたつ情報もあるのに
いつもひとりで笑ってしまうのが
宗教系の建物
白い壁にものすごく大きく黒々と
「信じる者は救われる」とあり
あーそうねえ と
チラシを入れようとすると
ポストの口の真下に赤い字で
「防犯カメラ作動中」!
世の中矛盾だらけだからね
わたしがポストなら
税金のとくそく状には口を閉じる
県を越えて「差押えする」とせまる手紙
辺野古や高江に無駄な税金を使ってさ
借金のさいそく状にも口を閉じる
利子を払うのが精いっぱいで
元金は減らず 一生縛られる
あったらいいのに
「打ち出の小づち 受付作動中」
時代のポストの口があいている
マスク人間になって立ち止まる
(『1/2』第63号 2021.2月)
2020年10月25日
詩が歌になって
詩が歌になって
芝 憲子
声を出すとか歌うとかの、人の根源的な行為が、コロナウイルスのためにやりにくくなり、息苦しい環境になりました。なんとなく歌ってきた歌も貴重に思えます。私は1975年頃から、ぽつぽつ歌の作詞に関わってきました。現代詩を書く時と、作詞の時と、書く意識はそんなに変わりありません。いずれもだいたいは社会的なテーマで、平和を願う詩を書いてきました。ただ、普通の詩は、締め切りや決まったテーマがなくても自発的にぼそぼそ書きたいことを書くのですけれど、歌の作詞は、依頼があったときだけしてきました。作詞の専門家ではないのですべて自己流で、あとは作曲家にお任せしています。詩は一人で書いて、読者がいるのかいないのか全く心もとないもので、それに慣れているのですけれど、作詞は、作曲家、歌手、聞き手など、関わる人が一気にふえます。詩が歌になることで、最近二つもうれしいことがありました。
憲法のベアテさんの娘さんに
一つは、『詩人会議』二〇一三年六月号に「ピアノ曲・憲法」という詩を書き、その詩が元になって、このほど「孫とピアノ曲・憲法」という合唱曲ができます。作曲は大西進先生で、メロディーはもうできています。私の詞は、日本国憲法の作成に力を尽くしたベアテ・シロタ・ゴードンさんのことが中心で、憲法の精神が孫世代にも続くように、私たちが「ピアノ曲・憲法」を弾く、という内容です。ベアテさんの娘さんがニューヨークにいらっしゃることを、『新婦人しんぶん』で前に読んでいました。詞にメロディーが付いた先日、メールでベアテさんにそのことをお知らせし、詞は日本語のまま添付しました。翌日すぐお返事が来て、とても喜んで下さいました。他の方々に見せたいそうです。詞の日本語もグーグルの翻訳機能でだいたいわかるとのことです。憲法に男女平等の第二四条を入れることに大変力を尽くしたベアテさんの娘さん、ニコール・ゴードンさんに、このような形で詞を送ることができ、そのうち楽譜もお送りできるのでとてもうれしいです。歌詞には、(ベアテさんが)「亡くなる10日前にも 日本国憲法を他国のモデルへ と話した 孫はニコール・ゴードン ニューヨークの女性弁護士」と書きました。この詞には「孫」が三人出てきます。詞の最初は「辺野古にはいつも カメジローの孫がいる ヒゲつけて」で、一人目は瀬長カメジローさんの孫の瀬長和男さんで、沖縄県統一連の事務局長です。二人目は詩人会議のやはぎかのうさんです。祖母の矢作悦さんが、なぜかはわかりませんが、那覇に本籍があり、そのことが元でこの詞ができました。悦さんのお母さんが矢作哲さんで、平塚らいてうの女学校時代の受け持ちの先生でした。平塚らいてうの自伝『原始、女性は太陽であった』に出てきます。そして、三人目がニコール・ゴードンさんで、お母さんがベアテ・シロタ・ゴードンさん、祖父はレオ・シロタさんで、ロシア系ユダヤ人で、東京音楽学校で教鞭をとったピアニストです。このように散文的でやや複雑な詞なので、曲をつけるのは大変だと思います。沖縄と縁が深い大西先生が作曲して下さって、とてもありがたいです。
沖縄発の合唱組曲、池辺晋一郎作曲
二つ目のうれしいことは、私の沖縄の詩で構成された混声合唱組曲ができていることです。作曲は池辺晋一郎先生で、タイトルは先生がつけられた「沖縄は叫ぶ」で、六楽章の組曲です。今年の八月初演のはずが、コロナで一年延期になり、来年八月二九日(日)、浦添てだこ大ホールの予定です。池辺先生指揮で、募集する合唱団が歌います。詞は、詩集で発表の5篇の詩「おかあさん」「400の御霊(みたま)」「オキナワというだけで」「辺野古あなたの分も」「空は起きたて」と、新しく作詞した「沖縄から世界へ」です。沖縄うたごえ協議会会長の石垣潔さんが私の詩集を読まれて、構成もいっしょに考えて下さいました。池辺先生も沖縄への思い入れが強く、過去二年おきに沖縄で合唱公演をなさってきました(「無言館」「海のトランペット」など)。そして今度は、はじめて沖縄発の合唱曲をつくろうということになったものです。池辺先生とは、以前、合唱組曲「海の墓標」(1993年)で組みました。山口県宇部の海底炭鉱事故で、朝鮮人が多数、日本人も含めて183人も亡くなった事件の歌です。作詞の依頼は大成京子さんからで、大成さんは沖縄出身のソプラノ歌手で、東京混声合唱団でソリストでした。山口県でコール・ヴィリアという合唱団を指導なさっていました。「海の墓標」は、山口、沖縄、東京の他、1995年に韓国釜山でも、一部韓国語で韓国の合唱団と共に歌われました。日本の歌は舞台では禁止の時代で、日本大使館に学生が抗議に来たりして大変だったそうです。歌詞の内容が特別なので許可がとれて、日本の歌が歌われた画期的、先駆的な公演です。現在の日韓の音楽交流を思うと時代が動いたのがよくわかります。
これまでの作詞、映画のテーマソング
大成京子さんは、いくつもの新曲、それも社会的テーマの曲の作詞を私に頼んで下さいました。とても感謝しております。最初の曲は、原爆の胎内被爆児を主人公にした「百合子のうた」です。山口放送の磯野恭子さんのドキュメンタリー「聞こえるよ母さんの声がー原爆の子、百合子」を元にしたもので、作曲は宮原豊先生でした。組曲の作詞ははじめてで、沖縄市での公演など、思い出が深いです。そのあとは「真珠のうた―21世紀真珠の旅」「うしなわれたもの・えひめ丸」「岩国と沖縄を結ぶ歌」(1999年)「虹ぬユンター宮良長包が生きていたら」(2005年)「沖縄のねがい」(2017年)「オキナワ・山学校」(2018年)など、すべて大西進先生の作曲です。はじめの頃、鶴渕信子先生のご紹介で、うたごえ祭典の曲をつくるために、一緒にあちこち回りました。今も愛唱されている「タンポポ」作詞の狩俣繁久先生にお会いしたり、「一坪たりとも渡すまい」の昆布の闘いの現場に行き、佐久川末子さんにお話を伺ったりしました。出来上がったのが合唱曲「美(ちゅ)ら島(しま)は」で、うたごえ創立50周年記念合唱曲の一つになりました(1997年)。詩が歌になったのは、1975年「骨のカチャーシー」をフォーク歌手のまよなかしんやさんが歌われたのが最初の気がします。会沢芽美さんも「沖縄の雲の中から」を作曲なさいました。記録映画「県民のねがいを国政に」(1976年、瀬長亀次郎後援会制作)では、「たくましいガジマル」というテーマソングを作詞、杉本信夫先生が作曲し、横井久美子さんが歌われました。「たくましいガジマル・・・支えるのはふるさとのわたし達・・・ひとりひとりが開く未来・・・」という歌詞で、今とあまり変わらず、自分でも可笑しいです。また、映画「カメジロー・沖縄の青春」(1998年)(「シネマ沖縄」製作、橘祐典、謝名元慶福、島田耕、監督)のテーマソング「金網のない島」を作詞し、喜納昌吉さんが作曲、歌われました。これらの映画はDVDになっていて、今でも見られます。この頃の作詞依頼は、劇作家の謝名元慶福さんと「シネマ沖縄」からで、沖縄に来てまもない私を使って下さってありがたいことでした。私の作詞は、このように何人かのすばらしい知り合いと作曲家との出会いによって継続しました。
たまに演奏側に
自分の詩が目の前で歌われると、うれしいと共に少し気恥ずかしいです。私自身は歌うのは下手で苦手なのですが、新婦人那覇支部のコーラス班(鶴渕信子先生が指導)のメンバーで、たまに自分の歌を舞台で一緒に歌います。中でも2018年に、玉城デニーさんが県知事選に勝利した直後、平和コンサートを催し、大西先生や小森香子さんにいらしていただき、「コールかるがも」の皆さんも一緒に満員の観客の前で「沖縄のねがい」他を歌ったことは特別の体験でした。平和につながる作詞をしてきて良かったです。最近では沖縄の植物、昆虫の名入りの「オキナワ・山学校」を公民館で歌いました。また、三線を二〇年位前に偶然始め、今は新婦人の三線サークルで月一回だけ弾いて歌って楽しいです。西洋音楽と違うやり方が興味深くのんびり続いています。沖縄の歌詞の理解に役立ちます。私達は、小森香子作詞、大西進作曲の「青い空は」も三線で弾けます(!)。先生の川崎善美さんは、伝統の沖縄の曲はもちろん、「一坪たりとも渡すまい」や「タンポポ」など、何でも弾いて歌えます。私はここ数年、元旦と、三月四日の三線の日には辺野古に行き、「かぎやで風節」「辺野喜節」等を一番下手組で弾いています。仲間もふえ、三線も続けてきて良かったです。誰でも心おきなく歌うことが早くできますように、と思います。
( 『詩人会議』 2020.11月号)
芝 憲子
声を出すとか歌うとかの、人の根源的な行為が、コロナウイルスのためにやりにくくなり、息苦しい環境になりました。なんとなく歌ってきた歌も貴重に思えます。私は1975年頃から、ぽつぽつ歌の作詞に関わってきました。現代詩を書く時と、作詞の時と、書く意識はそんなに変わりありません。いずれもだいたいは社会的なテーマで、平和を願う詩を書いてきました。ただ、普通の詩は、締め切りや決まったテーマがなくても自発的にぼそぼそ書きたいことを書くのですけれど、歌の作詞は、依頼があったときだけしてきました。作詞の専門家ではないのですべて自己流で、あとは作曲家にお任せしています。詩は一人で書いて、読者がいるのかいないのか全く心もとないもので、それに慣れているのですけれど、作詞は、作曲家、歌手、聞き手など、関わる人が一気にふえます。詩が歌になることで、最近二つもうれしいことがありました。
憲法のベアテさんの娘さんに
一つは、『詩人会議』二〇一三年六月号に「ピアノ曲・憲法」という詩を書き、その詩が元になって、このほど「孫とピアノ曲・憲法」という合唱曲ができます。作曲は大西進先生で、メロディーはもうできています。私の詞は、日本国憲法の作成に力を尽くしたベアテ・シロタ・ゴードンさんのことが中心で、憲法の精神が孫世代にも続くように、私たちが「ピアノ曲・憲法」を弾く、という内容です。ベアテさんの娘さんがニューヨークにいらっしゃることを、『新婦人しんぶん』で前に読んでいました。詞にメロディーが付いた先日、メールでベアテさんにそのことをお知らせし、詞は日本語のまま添付しました。翌日すぐお返事が来て、とても喜んで下さいました。他の方々に見せたいそうです。詞の日本語もグーグルの翻訳機能でだいたいわかるとのことです。憲法に男女平等の第二四条を入れることに大変力を尽くしたベアテさんの娘さん、ニコール・ゴードンさんに、このような形で詞を送ることができ、そのうち楽譜もお送りできるのでとてもうれしいです。歌詞には、(ベアテさんが)「亡くなる10日前にも 日本国憲法を他国のモデルへ と話した 孫はニコール・ゴードン ニューヨークの女性弁護士」と書きました。この詞には「孫」が三人出てきます。詞の最初は「辺野古にはいつも カメジローの孫がいる ヒゲつけて」で、一人目は瀬長カメジローさんの孫の瀬長和男さんで、沖縄県統一連の事務局長です。二人目は詩人会議のやはぎかのうさんです。祖母の矢作悦さんが、なぜかはわかりませんが、那覇に本籍があり、そのことが元でこの詞ができました。悦さんのお母さんが矢作哲さんで、平塚らいてうの女学校時代の受け持ちの先生でした。平塚らいてうの自伝『原始、女性は太陽であった』に出てきます。そして、三人目がニコール・ゴードンさんで、お母さんがベアテ・シロタ・ゴードンさん、祖父はレオ・シロタさんで、ロシア系ユダヤ人で、東京音楽学校で教鞭をとったピアニストです。このように散文的でやや複雑な詞なので、曲をつけるのは大変だと思います。沖縄と縁が深い大西先生が作曲して下さって、とてもありがたいです。
沖縄発の合唱組曲、池辺晋一郎作曲
二つ目のうれしいことは、私の沖縄の詩で構成された混声合唱組曲ができていることです。作曲は池辺晋一郎先生で、タイトルは先生がつけられた「沖縄は叫ぶ」で、六楽章の組曲です。今年の八月初演のはずが、コロナで一年延期になり、来年八月二九日(日)、浦添てだこ大ホールの予定です。池辺先生指揮で、募集する合唱団が歌います。詞は、詩集で発表の5篇の詩「おかあさん」「400の御霊(みたま)」「オキナワというだけで」「辺野古あなたの分も」「空は起きたて」と、新しく作詞した「沖縄から世界へ」です。沖縄うたごえ協議会会長の石垣潔さんが私の詩集を読まれて、構成もいっしょに考えて下さいました。池辺先生も沖縄への思い入れが強く、過去二年おきに沖縄で合唱公演をなさってきました(「無言館」「海のトランペット」など)。そして今度は、はじめて沖縄発の合唱曲をつくろうということになったものです。池辺先生とは、以前、合唱組曲「海の墓標」(1993年)で組みました。山口県宇部の海底炭鉱事故で、朝鮮人が多数、日本人も含めて183人も亡くなった事件の歌です。作詞の依頼は大成京子さんからで、大成さんは沖縄出身のソプラノ歌手で、東京混声合唱団でソリストでした。山口県でコール・ヴィリアという合唱団を指導なさっていました。「海の墓標」は、山口、沖縄、東京の他、1995年に韓国釜山でも、一部韓国語で韓国の合唱団と共に歌われました。日本の歌は舞台では禁止の時代で、日本大使館に学生が抗議に来たりして大変だったそうです。歌詞の内容が特別なので許可がとれて、日本の歌が歌われた画期的、先駆的な公演です。現在の日韓の音楽交流を思うと時代が動いたのがよくわかります。
これまでの作詞、映画のテーマソング
大成京子さんは、いくつもの新曲、それも社会的テーマの曲の作詞を私に頼んで下さいました。とても感謝しております。最初の曲は、原爆の胎内被爆児を主人公にした「百合子のうた」です。山口放送の磯野恭子さんのドキュメンタリー「聞こえるよ母さんの声がー原爆の子、百合子」を元にしたもので、作曲は宮原豊先生でした。組曲の作詞ははじめてで、沖縄市での公演など、思い出が深いです。そのあとは「真珠のうた―21世紀真珠の旅」「うしなわれたもの・えひめ丸」「岩国と沖縄を結ぶ歌」(1999年)「虹ぬユンター宮良長包が生きていたら」(2005年)「沖縄のねがい」(2017年)「オキナワ・山学校」(2018年)など、すべて大西進先生の作曲です。はじめの頃、鶴渕信子先生のご紹介で、うたごえ祭典の曲をつくるために、一緒にあちこち回りました。今も愛唱されている「タンポポ」作詞の狩俣繁久先生にお会いしたり、「一坪たりとも渡すまい」の昆布の闘いの現場に行き、佐久川末子さんにお話を伺ったりしました。出来上がったのが合唱曲「美(ちゅ)ら島(しま)は」で、うたごえ創立50周年記念合唱曲の一つになりました(1997年)。詩が歌になったのは、1975年「骨のカチャーシー」をフォーク歌手のまよなかしんやさんが歌われたのが最初の気がします。会沢芽美さんも「沖縄の雲の中から」を作曲なさいました。記録映画「県民のねがいを国政に」(1976年、瀬長亀次郎後援会制作)では、「たくましいガジマル」というテーマソングを作詞、杉本信夫先生が作曲し、横井久美子さんが歌われました。「たくましいガジマル・・・支えるのはふるさとのわたし達・・・ひとりひとりが開く未来・・・」という歌詞で、今とあまり変わらず、自分でも可笑しいです。また、映画「カメジロー・沖縄の青春」(1998年)(「シネマ沖縄」製作、橘祐典、謝名元慶福、島田耕、監督)のテーマソング「金網のない島」を作詞し、喜納昌吉さんが作曲、歌われました。これらの映画はDVDになっていて、今でも見られます。この頃の作詞依頼は、劇作家の謝名元慶福さんと「シネマ沖縄」からで、沖縄に来てまもない私を使って下さってありがたいことでした。私の作詞は、このように何人かのすばらしい知り合いと作曲家との出会いによって継続しました。
たまに演奏側に
自分の詩が目の前で歌われると、うれしいと共に少し気恥ずかしいです。私自身は歌うのは下手で苦手なのですが、新婦人那覇支部のコーラス班(鶴渕信子先生が指導)のメンバーで、たまに自分の歌を舞台で一緒に歌います。中でも2018年に、玉城デニーさんが県知事選に勝利した直後、平和コンサートを催し、大西先生や小森香子さんにいらしていただき、「コールかるがも」の皆さんも一緒に満員の観客の前で「沖縄のねがい」他を歌ったことは特別の体験でした。平和につながる作詞をしてきて良かったです。最近では沖縄の植物、昆虫の名入りの「オキナワ・山学校」を公民館で歌いました。また、三線を二〇年位前に偶然始め、今は新婦人の三線サークルで月一回だけ弾いて歌って楽しいです。西洋音楽と違うやり方が興味深くのんびり続いています。沖縄の歌詞の理解に役立ちます。私達は、小森香子作詞、大西進作曲の「青い空は」も三線で弾けます(!)。先生の川崎善美さんは、伝統の沖縄の曲はもちろん、「一坪たりとも渡すまい」や「タンポポ」など、何でも弾いて歌えます。私はここ数年、元旦と、三月四日の三線の日には辺野古に行き、「かぎやで風節」「辺野喜節」等を一番下手組で弾いています。仲間もふえ、三線も続けてきて良かったです。誰でも心おきなく歌うことが早くできますように、と思います。
( 『詩人会議』 2020.11月号)
2020年09月05日
コロナの街
美容室の名前
芝憲子
「アポロ ビューティーサロン」が
バス通りにある
ガラス戸の前に
まっ赤なアマリリスの鉢がいくつも
その横の道をずっと奥に行き
さらに曲がると
在る
「美容室 コロナ」
はじめて見つけたときは閉まっていた
やっぱり
いつから閉まったのかと気の毒だった
何度目かにとおったとき
女主人ふうの女性が店の前にいた
「ここをやっていらっしゃるのですか?」と聞くと
「はい」とうなずいた
「いつからなさっているのですか?」
「二十年前から」
「シャレた名前でしたのにねえ」
「選ばれてしまって」
「全国的に有名になりましたね。
常連のお客さんはもちろんみえるのでしょう?」
「ええ、それは」
「がんばってください」とわたしは言った
つぶれたのでなくて良かった
知ったふうなことを言いながら
わたし自身はこの美容室には髪を落とさないだろう
「アポロ」には入るかもしれない・・・
・・・でも 一度くらいは来ようか・・・
次にとおったとき
また閉まっていた
(『1/2』 第61号 2020.6)
芝憲子
「アポロ ビューティーサロン」が
バス通りにある
ガラス戸の前に
まっ赤なアマリリスの鉢がいくつも
その横の道をずっと奥に行き
さらに曲がると
在る
「美容室 コロナ」
はじめて見つけたときは閉まっていた
やっぱり
いつから閉まったのかと気の毒だった
何度目かにとおったとき
女主人ふうの女性が店の前にいた
「ここをやっていらっしゃるのですか?」と聞くと
「はい」とうなずいた
「いつからなさっているのですか?」
「二十年前から」
「シャレた名前でしたのにねえ」
「選ばれてしまって」
「全国的に有名になりましたね。
常連のお客さんはもちろんみえるのでしょう?」
「ええ、それは」
「がんばってください」とわたしは言った
つぶれたのでなくて良かった
知ったふうなことを言いながら
わたし自身はこの美容室には髪を落とさないだろう
「アポロ」には入るかもしれない・・・
・・・でも 一度くらいは来ようか・・・
次にとおったとき
また閉まっていた
(『1/2』 第61号 2020.6)
2020年09月01日
コロナの街
基地ある街で
芝憲子
不平等協定で編んだザルから
水がもれる
人がもれる
ウイルスつけて
ザル状のカゴつき自転車で
ゆっくり走っていると
小学校二年生くらいの男の子が歩いてきた
「こんにちは」と大きな声で言うので
「こんにちは」と答えた
まるで知らない男の子だ
「宝石があるよ、宝石。宝石見る?」
「ほんと、見る」
走り出した男の子のあとを
自転車で追いかけた
用事があったのだが・・・
家に連れて行くのだろうか?
ぐるぐる走って
ペット・トリミングの店の外
道路沿いの壁の下に
しきつめられた小石
「ほら」
小石はギザギザで 薄茶 薄緑 灰色 白
どれもほんの少し光っている
「ほんとうだね」
「とっていいんだよ」
男の子は何個かポケットにいれた
わたしも二個とって
「ありがとう」
でも
ほんとうの宝石はあなたですよ
(『詩人会議』 )
芝憲子
不平等協定で編んだザルから
水がもれる
人がもれる
ウイルスつけて
ザル状のカゴつき自転車で
ゆっくり走っていると
小学校二年生くらいの男の子が歩いてきた
「こんにちは」と大きな声で言うので
「こんにちは」と答えた
まるで知らない男の子だ
「宝石があるよ、宝石。宝石見る?」
「ほんと、見る」
走り出した男の子のあとを
自転車で追いかけた
用事があったのだが・・・
家に連れて行くのだろうか?
ぐるぐる走って
ペット・トリミングの店の外
道路沿いの壁の下に
しきつめられた小石
「ほら」
小石はギザギザで 薄茶 薄緑 灰色 白
どれもほんの少し光っている
「ほんとうだね」
「とっていいんだよ」
男の子は何個かポケットにいれた
わたしも二個とって
「ありがとう」
でも
ほんとうの宝石はあなたですよ
(『詩人会議』 )
2020年05月16日
最後の手紙
最後の手紙
芝憲子
すこしふるえた字だった
茶色の枠の原稿用紙に
「拙文、やっとできました。・・・・
もう九二歳で老いぼれているので、
充分にはできませんでしたので、
手を入れて下さい。 仲松生」
手紙と 息子さんが打った原稿
ジャーナリストの仲松庸(よう)全(ぜん)さんが
カメジローさん関連の文を書いて下さった
電話の声もはっきりしていた
まさかこのあと亡くなられるとは
生という謙虚な字が
今では生きるという意味に見える
庸全さんは一七歳で摩文仁のガマの中
日本兵が 泣きやまない少女の
こめかみに銃をあて うち殺した
ガマを出る と決心した
着ていたYシャツの首も袖もひきちぎり
棒にとりつけ 白旗にした
日本兵が切りつけた
「ここを」と顔から数ミリ
手で切って わたしにおしえた
外に出ると うしろに次々と住民が続いた
「女も、男も、負傷者も、老人も、子供も.兵も
ひとすじの糸となり」 と
詩「俺の七月」に書いた
なんという勇気
文字と ひとすじの人生と
遺された このあたり
渦を巻いて
痛い
(『詩人会議』 2020.5月号)
芝憲子
すこしふるえた字だった
茶色の枠の原稿用紙に
「拙文、やっとできました。・・・・
もう九二歳で老いぼれているので、
充分にはできませんでしたので、
手を入れて下さい。 仲松生」
手紙と 息子さんが打った原稿
ジャーナリストの仲松庸(よう)全(ぜん)さんが
カメジローさん関連の文を書いて下さった
電話の声もはっきりしていた
まさかこのあと亡くなられるとは
生という謙虚な字が
今では生きるという意味に見える
庸全さんは一七歳で摩文仁のガマの中
日本兵が 泣きやまない少女の
こめかみに銃をあて うち殺した
ガマを出る と決心した
着ていたYシャツの首も袖もひきちぎり
棒にとりつけ 白旗にした
日本兵が切りつけた
「ここを」と顔から数ミリ
手で切って わたしにおしえた
外に出ると うしろに次々と住民が続いた
「女も、男も、負傷者も、老人も、子供も.兵も
ひとすじの糸となり」 と
詩「俺の七月」に書いた
なんという勇気
文字と ひとすじの人生と
遺された このあたり
渦を巻いて
痛い
(『詩人会議』 2020.5月号)
2020年02月14日
沖縄の桜を見る会
沖縄の桜を見る会
芝憲子
「沖縄の桜を見る会」
主催 おきなわ後援会
時期 1月末から2月中旬
場所 名護城 本部八重岳 今帰仁城跡 与儀公園
6〇番の招待状不要
会費不要
5〇〇〇円いりません
飲み物食べ物は自分でもち
ゴミはもって帰ってください
捨てると森友学園になります
桜は寒緋ざくら またはヒカンざくらで
官費ざくら ではありません
与儀公園では
憲法九条の碑の横で写真を
笑顔は 「デニー」で
近くの人に話しかければ
サクラではないお友達に
山之口貘の記念碑もあります
「座布団」の詩の横の土に座れば
沖縄中の土砂と山をこわして
辺野古に運ぶ無謀が腰にきます
花の色は濃いピンク
花びらがちいさく
かんたんには散りません
華々しさはありませんが
かなりの風を味方にします
桜の樹木語がきこえる
「新宿御苑の桜さん
昨年は大変でしたね
人の数はやたらにふえたけれど
あの夫婦に少しでも近づこうと右往左往
彼らの腐った幹が見えるきっかけになりました
毎年咲いていれば
きっといいこともあります
ハチやチョウに乗って
この島にも来てください
ヒマワリやツツジのつぼみにも会えます」
(『1/2』 第60号 2020.2月)
芝憲子
「沖縄の桜を見る会」
主催 おきなわ後援会
時期 1月末から2月中旬
場所 名護城 本部八重岳 今帰仁城跡 与儀公園
6〇番の招待状不要
会費不要
5〇〇〇円いりません
飲み物食べ物は自分でもち
ゴミはもって帰ってください
捨てると森友学園になります
桜は寒緋ざくら またはヒカンざくらで
官費ざくら ではありません
与儀公園では
憲法九条の碑の横で写真を
笑顔は 「デニー」で
近くの人に話しかければ
サクラではないお友達に
山之口貘の記念碑もあります
「座布団」の詩の横の土に座れば
沖縄中の土砂と山をこわして
辺野古に運ぶ無謀が腰にきます
花の色は濃いピンク
花びらがちいさく
かんたんには散りません
華々しさはありませんが
かなりの風を味方にします
桜の樹木語がきこえる
「新宿御苑の桜さん
昨年は大変でしたね
人の数はやたらにふえたけれど
あの夫婦に少しでも近づこうと右往左往
彼らの腐った幹が見えるきっかけになりました
毎年咲いていれば
きっといいこともあります
ハチやチョウに乗って
この島にも来てください
ヒマワリやツツジのつぼみにも会えます」
(『1/2』 第60号 2020.2月)